マサグローさん


 マサグローさんが今日もまた、あなたの町を歩いています。
 ニコニコと股間をまさぐりながら。その行為に性的な意味があるのかないのか、単にそういう癖なのか、それは誰も知りません。白のポロシャツ、ベージュのチノパンとダンロップのスニーカーの隙間から白い靴下を覗かせ、誰かに危害を加えることもなく、ただただ、まさぐり歩いています。

「股ぐらまさぐるマサグロー」それは、「マ」のリフレインが小気味よい、素晴らしいフレーズでした。誰が言ったのかは不明ですが、それ以来、彼はマサグローさんと呼ばれるようになりました。かつてのマサグローさんは優秀な溶接工でした。けれど38歳のとき、なにか事件のようなものに巻き込まれ、すっかり記憶をなくしてしまったのです。

 砂浜で後頭部から血を流し倒れているのを発見されたのですが、事件の目撃者は一人も現われませんでした。ですから、なにがどうしてどうなったのか皆目見当がつかず迷宮入りとなりました。それから5年。マコトという中学生が立ち上がりました。同級生であるノリユキの特殊な能力を利用し、事件の全貌を明らかにしようというのです。

 マコトは、マサグローさんにただならぬ関心を抱いていました。どういうわけか他人とは思えなかったのです。「赤の他人」という言葉がありますが、赤は血液を連想させるのでむしろ「赤の身内」じゃないかと思いました。「赤の身内と緑の他人」そんな”即席めん”的なフレーズが思い浮かんだりもしました。

「マサグローさん、こっちこっち」事件現場の砂浜は徒歩で20分以上かかるので、なんとなく雰囲気の似ている近場の河原が選ばれました。「実際の現場のほうが正確に見えるんだけど」そんなノリユキのぼやきにマコトは、「そうそう、そうなんだよねぇー」とまるで自分のことのように苦い顔つきで言いました。

「さ、始めよう!」マコトの唐突な拍手に煽られたノリユキは、地面に正座するマサグローさんの鼻先に中指を立てました。それは、アメリカ映画で見たことのある悪意の仕草そのもので、マコトはたいそう肝をつぶしましたが、どうやらそれは、<見る>ために必要なモーションのようでした。そしてその中指を黙って見つめるマサグローさん。もし今この瞬間、マサグローさんが突如として記憶を取り戻したらどうなってしまうんだろう。そう考えて、マコトは少しワクワクしました。

「どう? なにか見える?」手こずっているのでしょうか、ノリユキは目をつむったまま低く唸っています。「ねえ、見えてるの? 見えてないの?」しかし、まったく反応がありません。マコトは無視されてかなりしょげかえってしまいました。もう家に帰りたい。そう思いながらも成り行きを見守っていると、ノリユキの指がわずかに下降、そして上昇しました。中指が、マサグローさんの右の鼻の穴に入ったのです。

「見えた!!!」マコトは仰天してビクっとなりました。「ほ、本当ですか!?」混乱して敬語を使うマコト。ノリユキの話を要約すると、つまり、こういうことでした。


「急に海が見たくなった」夜中に原付を飛ばしたマサグローさんは膝を抱え、湿った砂をパラパラしながら満月を眺めていました。そして、ふと立ち上がり、あてどなく砂浜を歩いていると何かが落ちているのが見えました。それはエッチな雑誌でした。瞬く間に砂浜を駆け、岩場の陰でパリパリとページをめくります。抑制できない神経の高ぶり。誰もいないのをいいことに下半身に刺激を与え始めるマサグローさん。満月の明りに照らされる女性の裸体、荒い息づかい、そして波の音。やがてボルテージは最高潮に達し、咆哮をあげんが如きのその刹那、マサグローさんは後頭部に強いダメージを受けました。下半身を露わにしたまま前のめりに倒れ込むマサグローさん。瞳からは、激痛の涙が溢れています。そんな姿を、満月は、いつまでもやさしく照らし続けるのでした。


「ウミガメっぽい」

 中指を震わせて笑いを堪えていたノリユキは、「もうダメだ!」と<見る>のを止めてしまいました。ひとしきりの悶絶が落着いてから、「で、結局、殴ったのは誰だったの?」とマコトが問うたもののノリユキは「背は高くて、髪は長かった、ようなシルエットだった、かなあ」と頼りない発言に終始し、肝心要を知ることが出来ませんでした。マコトはノリユキの隣へとへたり込むと、ため息をつきました。

「あ!」唐突に素っ頓狂な声をあげたノリユキの視線の先には、自転車にまたがり土手の上からこちらを見ている柔肌ポリスの姿がありました。「オレ、あいつのこと好きじゃない」マコトが憎々しげに言いました。「なんで?」「うちのチョコ、あいつにだけ吠えるんだ」ノリユキは驚きました。「え? あの大人しい犬が?」「うん。なんか変なのよ、ってママが言ってた」

「たしかに、背が高くて長髪なところが薄気味悪いよなあ」ノリユキがそう言うと二人は、はっと目を合わせて叫びました。「ああっ!!!」そして、改めて柔肌ポリスの姿を確認するとノリユキはこう言いました。「え? どういうこと?」「なにが?」「いまの」「いまのって?」「ああっ! て言ったじゃん」「いや、なんとなく、っていうかノリユキも言ったじゃん」「いやー、なんか雰囲気で」「そうなの?」「そう」「ていうかなんでこっち見てんだろ」「それよかさ、結局犯人は誰なわけ?」「分かんないよ」「分かんないじゃなくて、もいっかいちゃんと見てよ」「フォース使い切ったから今日はもう無理!」「えー」

 二人がふと振り返ると、いつの間にか立ち上がっていたマサグローさんが左手で股間をまさぐりながら、土手の上に向かってニコニコと大きく手を振っていました。しかし、それ気づいた柔肌ポリスは何も言わず走り去ってしまいました。それでもマサグローさんは、柔肌ポリスの姿が見えなくなるまで大きく手を振り続けるのでした。「うぇうらいろお、いであのうのう」珍しくマサグローさんが何か言ったのですが、意味が分からないので二人は無視をしました。