孫よ


 
 僕は荷物の配達夫で、荷物を届けに来ただけだった。
 玄関のチャイムを押すと、庭の方から声が聞こえた。回ってみると縁側の奥の障子戸から、半分だけ顔を出しているおばあさんがいた。
「あの、これ、荷物です」
精密機器と書かれた荷物を渡し、受領印をお願いした。
「ハンコね、はいはいはい」
2~3分は待っただろうか。印鑑を取りに行ったはずのおばあさんの手には小さなお盆が携えられており、その上にはふたつの湯飲みが細かく震えながら立っていた。
「あの、すみません、印鑑をぉ」
そう言うとおばあさんは、
「あらやだ、恥ずかしいこと」
と、お盆を縁側に置き、恥ずかしげもなくケタケタ笑って、再び障子戸の奥にゆっくりと消えた。
 かすれた朱肉ではあったが、辛うじて印鑑を押してもらうことが出来た。通常ならば、お礼を言って立ち去るところである。しかしながら、「飲んで行きなさい飲んで行きなさい」と何度も勧められたため、一緒に縁側でお茶を飲むはめになった。スパっと断れないのはやはり欠点なのだろうか。
 湯気の立つ湯飲みから一口すすって驚いた。うまい。思わず聞いた。
「これ、なんてお茶ですか?」
「ほおじちゃっ」
おばあさんは何故か、力むようにして答えた。
 ほうじ茶なら飲んだことがある。しかし、こんなにも美味しいと感じた記憶はない。ひと息に飲むにはまだ熱かったが、冷まし息を強く吹かせながらぐっと飲む。心地良い喉ごしとともに、香ばしさが鼻を抜ける。
 はー。ふっと肩の力が抜けた。

 この仕事を始めてからは、食事を味わって食べたことがない。ほとんど噛まずに丸飲みだ。数少ない情報源であるスピリッツだってSAP!だって相当な斜め読みで、内容の理解度は甚だ怪しい。リポDだって、缶コーヒーだっていつも一気飲みだし、メールへの返信は10文字以内と決めている。
 すべては時間を作るためで、そうして出来上がった時間は、荷物を運ぶ為に余すところなく充てられている。この職業に就く人間はたいてい、知らず知らずのうちに自分の小さな時間たちを会社へ献上しているのだ。

 春で満たされた日だまりの縁側。
 ぽたぽた焼きのイラストみたいなおばあさんと並んでお茶をすするこの時間。なんて贅沢なのだろうと思う。このまま昼寝でもしたいほどに気持ちがよい。

「ウチの孫はねえ、800馬力なのよ」
おばあさんが唐突にそう言った。脳天にスイカが落ちてきた。ような気がした。ぽかぽかとした光のなかで恍惚としていた僕の脳天にだ。
「え? 何がですか?」
きっと僕が聞き間違えたんだろうと思ったのだ。よしんば、正しく聞きとっていたとしても聞き直したくなる発言だ。
「孫よ」
「お孫さんが、なにか?」
「3つなのよ」
「ええ、その3つのお孫さんが、なんか、バリキがどうのって……」
「800馬力なの」
「なるほど」
聞き間違いではなかった。しかし、聞き間違いでなかったが故に、僕は言葉に詰まってしまった。

 悪い癖なのだ。よく分からない事や、言葉がよく聞こえなかったときに、「なるほど」とか「へえー」とか「ふうーん」などといった安易な受け答えをしてしまい、話がずれていく。どうしてなのか、聞き返す事が恥ずかしくなってしまうのだ。でも、今回の場合はちょっと違う。どんなふうに聞いていいのか分からない。
「何がどうして馬力はどこから?」
どうしても禅問答みたいな質問しか浮かんでこない。

 すぐに思いついたのは、怪力の3歳児だった。おもちゃ売り場で駄々をこねれば梃子でも動かず売り場の床を破壊する、癇癪起こして電話帳を引き裂くし、スタックした車をロープと前歯で引き上げる、寝起きの不機嫌で投げたフォークが壁を突き刺して、デコピンで額の骨が陥没し、肩を揉ませれば肉離れ、「アンパーンチ!」で鼻の骨が折れる。
 無邪気さとは裏腹なバイオレンス孫。800馬力がどれほどのパワーを持つのか見当がつかないが、きっと肉離れや骨折では済まないだろう。上手い事を言うつもりはないが、そんな孫を相手にするのは、それこそ骨が折れるはずだ。

「じきに保育園から帰ってくるの」
「お孫さんがですか?」
「かわいいのよおおお」
そう言って相好を崩したおばあさんの湯飲みが、右手の中で砕け散った。
「ひっ」
「あらやだ恥ずかしい」
おばあさんが、雑巾を取りに障子の奥へ消えたのを見計らって、僕は逃げた。一言、お茶のお礼を。と薄く思ったが、その間に800馬力の孫が帰ってきて、「遊ぼうよ!」なんてことになったら、僕はどうなるか分からない。

 次の配達先へ向かう間、あのおばあさんは何馬力だったのか、気になって仕方がなかった。それだけは聞いておけばよかったなあ、と少し後悔した。