あるところに犬がいました。
犬は、腰のまがったおじいさんと暮らしていてそれはたいそう可愛がられていました。犬はおじいさんのことが好きでした。
朝・昼・晩の散歩に出る前、おじいさんは小屋の前のビールケースに立って見下ろしながら「おい、犬。行くど」とビジネスライクに言い放つのが常でした。
それでも犬はおじいさんのことが好きでした。
ヨタヨタ歩くおじいさんの後ろをヒタヒタ追って、朝の駅前に並んで立ちました。改札から吐き出された女子高生の群れがおじいさんと犬を取り囲みます。
「キャーかわいー!」
「そうじゃろうそうじゃろう」
「ちょーかわいいー!」
「いくらでもなじぇたらよかろう」
そうして女子高生が犬を撫でているあいだ、おじいさんはほぼ半目になりながら女子高生の空気を深呼吸で体いっぱいに取り込み「ええのう、ええのう」と帰りの道すがらで呟きました。
それでも犬はおじいさんのことが好きでした。
昼は、あてどなく歩きました。そうしていると、大根畑から突如として現れたあき竹城似の中年女性が「あらかわいごどー」と近寄って来ました。おじいさんは歩みを止めることもせず完全に無視を決め込みました。
それでも犬は、おじいさんのことが好きでした。
夕方は高級住宅街のスーパー前に並んで立ちました。
「きゃあ、かわいらしい。なんて名前かしら?」
「犬じゃ」
「へ、へえー。それにしてもラブリーね」
「そうじゃろそうじゃろ、なじぇたらよかろ」
そうして、スカした大きめのサングラスをかけた彼女たちが犬を撫でているあいだ、おじいさんは半目でもってお洒落かつグレードの高い空気を大きく体内に取り込みクラクラしつつ、胸の谷間に視線を注いだりしました。
そのときです。おじいさんが密かに「ボンキュッボン」と名付けている豊満な体つきの若い婦人が「ちょっと!ジジイ!何見てんの!?」と叫び出しました。バレたのです。おじいさんは脱兎のごとく駆け出すと、犬が追いつくのもやっとの早さでどこまでもどこまでも、どこまでも走りました。
人気のない山裾のあたりまで来たとき、傍らに湧き水の立て看板を見つけました。おじいさんは這いつくばるようにして夢中で水を飲みました。犬もたまらずぺしゃぺしゃ飲んだのですが、あまりに夢中で飲んだので酸欠で湧き水に落ちてしまいました。「犬!」そう言って手を差し伸べたおじいさんも落ちました。
おじいさんは呼吸の荒いずぶ濡れの体を草むらに横たえ、しばらくのあいだハアハア言っていましたが、ちらりと犬を見やると突然、笑い出しました。ひきつけを起こしたように笑いました。そして、笑いすぎの酸欠でまた落ちました。
犬は、おじいさんのことを、ずっと前から好きでした。
数年後、おじいさんは病気を患って入院し、犬は孫娘によって引き取られました。犬は、もうおじいさんには会えないような気がしていました。孫娘の家族は犬のことをロッキーと呼びましたが、よもや自分のこととは思えず、ただおじいさんに会えない寂しさでみるみる痩せてゆきました。
犬は、孫娘の膝の上でした。「ロッキー」という名前にも慣れてきたというのに声が出すことが出来ません。扇風機のぬるい微風を受けながら、ただ、弱々しく伏せるのみです。セミのうるさいジージーが止むのと同時にカルピスの氷がカランと音を立てました。妙な気配を察知した犬が薄目を開けると、そこに、おじいさんが立っていました。半透明のおじいさんでした。犬はうれしさたまらずシッポを振ったのですが、おじいさんは犬に目もくれず、孫娘の首筋あたりで鼻をくんくんさせるばかりです。
すっかり忘れられてしまったのでしょうか。犬は悲しくなって目を閉じました。するとおじいさんが「おい、犬」と低く呼びました。目を開けてみると、ふわふわ宙から見下ろしながら「おい、犬。行くど」とビジネスライクに言いました。
犬はうれしさのあまりワン! と飛びつきました。そして、おじいさんに撫でられながら振り返ると孫娘の泣いている姿が見えました。傍らの母親は「最後に、ロッキー、笑ってたね」と言って、犬の体と孫娘の体をさすり続けています。
向き直るとおじいさんも泣いていました。もう、この部屋で、泣いていないのは犬だけです。犬は、泣いてないことにするためにおじいさんの顔を舐めました。とてもしょっぱい味がしましたが、犬は我慢して舐め続けました。
それは9月の、ひどく暑い日のことでした。
これなんていい話。
フランダースの犬と双璧。
>ほりまささん
ぜひ教材として使ってください。
なんなら教科書に載せたいですね。
きっと、きっといい子が育ちます。