OL平井のライフワーク


 
 金田があまりにもねちっこく罵倒するので堪え切れず、みんなの見ている前でびーびー泣いてしまった。私がコピーのリセットを忘れたから50枚も無駄コピーをしてしまったじゃないかとねちねちねちねち小一時間も。私のリセット忘れは毎度のことなのだから、使う前に自分でリセットすればいいのだし、じゃんじゃん出てくる50枚を黙って見ているのがおかしい、というか、目撃者談によると止め方が分からずオロオロしていたみたい。そんなのコンセントをバツンと抜けばいいだけの話なのに!

 ヴゥォォォォォォォォォオ!!! アっタマ来る。なんとかして返り討ちにしないと収まりがつかないわ、って報復方法の勘案にランチのカロリーを総動員させた甲斐あって、退社時間ギリギリにとびきりナイスな着想を得ることができたの。タイムカードをギギギと刻み、駆け足で帰宅、すぐさまディスプレイにかじり付くと目当てのアイテムはすぐに見つかった。新コスモス電機社製ポータブル型ニオイセンサ XP-329III。電源投入「1分」で測定OK、単三アルカリ4本で8時間稼働し、測定結果をパソコンに取り込むことも出来るスグレモノ。楽天市場で税込み344,400円はかなり痛いけどすぐにカートへ放り込んだ。だって、躊躇なんかしてられないの。報復執行の舞台は、今月いっぱいで寿退社する吉乃のさよなら飲み会。利用しちゃってゴメンね吉乃、でも絶好のチャンスなの、わかって。

 色白ふっくらでいつもニコニコの吉乃はすこぶるオッサン受けがよい。吉乃もそれを知っててキラキラ振る舞う。かなり計算高いけどこれが不思議と嫌みじゃない。この日も、油顔たちのハラスメントな視線とポマードの臭いに囲まれて下世話を肴にキャッキャワハハとやっている。「よしのー! こっち向いてー」私は、囲みの外からビデオカメラを向ける。記念映像の名を借りているけれど、これも報復の必須アイテム。ソニー社製ビデオカメラHDR-SR7。手のひらサイズの洗練ボディながらハイビジョン撮影を実現、スタミナ6時間撮影、メモリースティック記録でパソコンへの取り込みも容易なスグレモノ。価格.comで税込み87,850円はちょっと痛いけど尻込みなんてしてられないんだから!

 ファインダーの向こうではネクタイ鉢巻きの部長が毛むくじゃらのぽっこりお腹をむき出しにしてぐにゃぐにゃ気味の悪いダンスをお披露目、吉乃は和太鼓に見立てた部長の腹を割りばしで威勢よくドンドンドドンと打ち鳴らす演技を見せる。はああー、なんなのよこの会社。なーんてため息ついてる場合じゃないわ。この盛り上がりのスキを縫ってさっさと済ませてしまわないと。「ちょっとトイレ」私はビデオカメラを携えたまま席を外し後ろ手に障子戸を閉め、座敷の上がりかまちにしゃがみ込んであらかじめ電源を入れておいたXP-329IIIのセンサ部分を金田の皮靴の奥深くに差し込み、ビデオカメラのフォーカスをニオイセンサの液晶にピタリ合わせた。よし、シミュレーション通りに私、やれてる。ピピッ。かわいい電子音が鳴って、液晶に測定値が反映される。せ、1210!? すっごーい!!! メーカーHPのサンプル値によれば靴の中は290~580だから、え? 倍? 倍以上? 倍以上も臭いわけ??? 予想外の結果に興奮して脳みそは窒息寸前、クラクラしながら深呼吸したら1210の悪臭を酸素の欠乏した脳へふんだんに取り入れてしまってワンワンワワン! って意識がバグりかけたのも予想外だったケド、まあとにかくこれで資料は揃ったし、あとは申請するだけ。

 申請といっても専門の仲介業者に映像資料を渡すだけなのカンタンなの。なーんてホントは自分で申請するのが面倒だったから。だって全部英語で書かなきゃならないし、書いたら書いたでどうやって郵送したらいいのかチンプンカンプンだし、だったら任せちゃえ! って。最安のプランでも「ぽっきり10万円」でかなーり痛いけど二の足なんか踏んでられないの! ここで頓挫なんかしてられないじゃない? 担当者に申請内容を伝えたらしかめ面されたけどこっちは客、客なの。四の五のつべこべなんて言わせなかったわ。

 で、で、で、その努力の結実が今、私の手元にあるの!
 いくわよ? じゃじゃーん! ギネスブック2008!!! ほら見て、このページ、ここにほら金田一郎って。足の臭い世界一って。1210って。達成! って。ウケるー、超ウケるっ! 私の撮影したキャプチャ映像もキレイに印刷されてるんだけどこれハイビジョンだからよ。スペック背伸びしといてやっぱり正解だったわ。あ、余談だけど、本になる前の段階で認定の電話確認があるの。で、私、連絡先を会社にしといたのね。そしたらその電話に部長が出ちゃったの。始めは事情を把握してなくて「なんですと!? 我が社からギネス記録が!」なんて声が弾んでたんだけど、内容知ったら「ちょっと来い、カネダッ!」って大激怒。あちゃーこれはマズイ。もし「取り消せ!」なんてことになったら私の投資が水の泡になっちゃうマズイ! マズイマズイ! って機転を利かせて「え? なに? ギネス? ギネスなの? きゃー! すごーい! すごいすごーい!!!」って大袈裟にさんざん褒めて喚いてフロア全員の注目を集めて後に引けなくしたの。そしたら部長、どういうわけかまんざらでもないような顔つきになって電話口に「イエス!」だって。この瞬間に記録が正式認定されたの、イェス!!! ふわー、あぶなかったー。

 ま、そんな経緯も含めてこのギネスブックがあるのね。きゃーもうなんなのこの充実感。んもークセになりそう。これ、もしかしたら私のライフワークになるかもしんない。あ、勝手にギネスって、いま名付けたわ。どれだけ私財を投じたって惜しいとは思わないだけの魅力があるわよ。みんなもどおお? 勝手にギネス。え? 金田はどうなったかって? そんなこと知りたいの? んーとね、ギネスの影響で株価が暴落した責任を取らされて山梨の事業所に左遷されたわ。テヘ、ちょっとやりすぎちゃったかしら。

 
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・Guinness World Records – Japanese – Home Page
 http://www.guinnessworldrecords.com/ja/default.aspx

ミルクセーキ


 
 餅田部長はやさしい。

 部長と二人でエレベーターに乗り合わせたとき、いつものニコニコ顔で「ほら、平井クン」と言ってポケットから取り出したミルキーをひとつ、私の手のひらにすっと置いた。うっかりミスで社外秘メールを外部転送して窮地に陥っていた私の姿が、相当しょげかえっているように見えたのだろう。そうは見えないように振る舞ってはいたけど実際は、麺類しか受け付けないほど精神的にやられていた。

 包みの両端を引っぱって、甘く香る乳白色の粒をころりと口に放ると、思いがけない甘さがたちまち体中を巡り巡って、パンパンの風船がみるみるしぼんでいくみたいにへなへなとへたり込みそうになった。部長を横目で見ると、階数ランプを黙って見上げている。また、白髪が増えている。すっと扉が開いた。目的の階じゃなかったけど「ありがとうございます」と振り返らずに短く言って、ヒールを鳴らしながら慌てて駆け込んだトイレで、声を殺してひーんと泣いた。ミルキーを舐めながら涙を流すなんて、私、バカみたい。と思ったけど、どうやったら止められるのか分からなかった。結局、部長のやさしい甘さが全部溶けてなくなってしまうまで、私は泣いていた。

 これが金田なら、ゴディバのチョコレートなんかをチョイスしてくるだろう。少し溶けかけたベタベタのを、これ見よがしに一粒だけ握らせてくるはずだ。より値の張るもので機嫌をとりたい典型的な男の中でも、ケチの加味された最低ランクの男だ。女の子はみーんな引いてる。こんなヤツが課長になれるなんて、この会社はオカシイ。とは言うものの、私は一度だけ金田と寝たことがある。見た目のカッコよさ以外に何も知ろうとしなかったあの頃の私も、やっぱりオカシかったんだと思う。座薬みたいなフォルムの車で迎えに来たあの時、間違いに気付くべきだったのだ。すごく後悔している。

 
***

 
 こんなこともあった。
 うっかりミスで大量の重要書類を次々とシュレッダーしてしまって半泣き状態の私に、「そんなにしょげるなよ」と肩に手を置いてやさしく微笑んでくれた。「だってだって・・・」とグズグズする私に部長は、今日はもう帰って休むようにと言ってくれた。帰りしなに買った牛丼特盛りをフランフランのテーブルにちょんと置いてから、姿見に映る自分を見て驚いた。右の、そう、右の肩に何かが乗っている。え? なに!? なんなの?? 恐る恐るつまんでみると、それは一枚のスライスチーズだった。

 泣いた。
 冷たい床にへたり込んでわんわん泣いた。気づかれないようにそっと乗せてくれた部長の、そのやさしすぎるやさしさに涙が止まらなかった。やさしいお乳の香りがプンと鼻先を刺激する。チーズの匂いを嗅ぎながら涙を流すなんて、私、バカみたい。と思ったけど、どうやったら止められるのか分からなかった。スライスチーズの半分は、牛丼の上でとろっとさせて一緒にモリモリかき込み、もう半分はおつまみにしてスーパードライをグビグビやった。私は、泣きながら食べ、泣きながら飲んだ。

 このエピソードを会社の女の子たちに話して聞かせた数日後、金田が私の肩に手を乗せ、「平井君、風邪、ひどいんだろ? 今日は帰っていいよ」と微笑んだ。たまには気が利くこと言うじゃん。私は朦朧としながら地下鉄に乗った。混雑で座れないので吊革にしがみついて目を閉じていた。いつになく周囲が騒がしいのが気になったけど、ただただ悪寒に耐えるので精一杯だった。あまりの騒がしさ耐えきれなくなった頃、「西巣鴨、西巣鴨~」と聞こえたのでホームへ降りた。その途端にアナウンスが響いた。

「えー、ただいまお客様より、車内で異臭がするとの通報があったため、緊急点検を行う関係上、この電車は当駅にてしばらく停車致します」

 やだーこわーい。逃げるようにして階段を駆け上がって地上へ出ると、後ろから「ちょっと、すみません」と声を掛けられた。駅員さんだった。私の右肩を指差している。見ると、何かが乗っている。え? なに!? なんなの?? 触るのが怖くて、マスクを外して匂いを嗅いでみると、やだ、臭い! やだやだやだー! 慌てて手で払ったけど、え!? 取れない! 勇気を出してつまんでみても、アッ、臭い! ダメ、取れない、がっ、臭い! すがるような目で駅員さんに近づいたら後ずさりされてしまった。もう、もう、なんなのよ、もう!! 思い切って鷲づかみにして地面に叩きつけたら、匂いを嗅ぎに近づいた野良犬が、キャゥン! とせつなく鳴いて逃げていった。

 部長のやさしさに対抗心を燃やした金田が肩に乗せたのはなんと、ブルーチーズだったのだ。馬鹿野郎。しかも、うすーく切ったのを両面テープで貼り付けるという、金田お得意のケチくさい高級志向を発揮して。おかげで、ヤフーのトピックスに、『地下鉄異臭騒ぎ、都内OL(28)の所持していたチーズが原因?』などと大々的に載ってしまった。ヴゥォォォォォォォォォオ!!! 怒り狂った私は、会社の女の子を総動員して買い占めたブルーチーズを金田のデスクの引き出しという引き出しへぎゅうぎゅうに詰め仕込んでやった。そして異臭に気付いた専務の逆鱗に触れ、金田は間もなく山梨の事業所へと左遷されてしまった。テヘ、ちょっとやりすぎちゃったか。

 
***

 
 そういえばこんなこともあった。
 忘年会で酔いつぶれた私は、ハイヒールがぷらんぷらんと脱げそうに揺れるリズムで目が覚めた。あ、私、誰かに背負われてる。新入社員の橋本くんだったらいいなー。最近彼とよく目が合うの。もう、このまま背負ってどこにでも連れてって! きゃー私ったらやだー。と期待の薄目で覗いてみると部長だった。驚きすぎて心臓の鼓動が倍の倍の倍でドクドクと鳴った。なんで? なんで?? 164センチの私を157センチの部長が、背負ってる。私は部長になんてことを。ああ、降りたい。降りたいけど、でも、降りたあとが恥ずかしい。どうしよう、どうしよう。私のやきもきをよそに部長は、えっちらおっちら重たそうに揺れながら、早回しのテープみたいな声で何か歌っている。

 ♪
 おらは死んじまっただー
 おらは死んじまっただー
 おらは死んじまっただー 天国に行っただー

 聞いたことない。昔の歌? それとも部長の自作? なんだか悲しくておかしくて、だけど落着くような、不思議な歌だった。

 ♪
 長い階段を 雲の階段をー
 おらは登っただ ふらふらとー
 おらはよたよたと 登り続けただー
 やっと天国の門についただー
 天国よいとこ一度はおいで
 酒はうまいし ねえちゃんはきれいだ
 ワーワーワッワー

 私は泣いた。
 部長にバレないように声を殺して泣いた。うっかりミスでがぶがぶワインを飲みながら「死にたい」を連呼していた私への、この私へ向けての応援ソングなのだと、勝手に思って泣いた。「オリビアを聴きながら」ならまだしも、変テコな歌を聴きながら泣くなんて、私、バカみたい。と思ったらピタリ、涙が止まった。

 歌はこのあと、神様に愛想を尽かされるほど酒を飲み過ぎ、天国を追い出されて生き返った。というくだりで終わった。私はコンビニのベンチで降ろされ、「平気か?」と聞かれたけど酔ってるフリで俯いたまま短く頷いた。「ちょっと待ってろ」そう言って部長はコンビニでミルクセーキを買ってきてくれた。チビだし髪薄いし雪だるまみたいな顔してるけど、私は部長のことが好きだ。結婚するならこういう人がいい。私、こういう人がいいの。

 ミルクセーキの甘ったるい湯気が私をふんわりと包む。ひと口すすると、コクのあるやさしい甘さが体も心も温めてくれた。私は泣いた。何もかもがやさしすぎて、しくしくと泣いた。部長は見ないフリをして、ワンカップをひと口すすった。目の前の国道では、ぐでんぐでんのサラリーマンがタクシーを捉まえようと必死に手を上げているものの、ことごとく乗車拒否されている。こんなシチュエーションで泣くなんて、私、バカみたい。と思ったけどどうやって止めたらいいのか分からない。と思ったら止まってた。しばらく沈黙が続いた。

 「・・・オレも、追い出されてえなあ」部長が唐突につぶやいた。え? え? どんな言葉をかけたらいいのか見当が付かない。・・・生き返りたいって、こと? そんな、そこまで思い詰められているなんて、部長の抱えているものっていったい。様々な憶測が脳裏を駆け巡る。ああ、もう! 私はなぜだか突然そうしたくなって、「餅田さん」と呼んでみた。驚いて振り向く部長。しかしそれ以上に私自身も驚いていた。なんだか顔を上げることが出来ない。きっと、二人の間の何かを変えたくてそうしたのかもしれない。再び長い沈黙が続いた。気まずい。

 乗車拒否されていたサラリーマンが、こちらへ向かってよろよろと近づいてくる。どう見ても私たちに危害を加えることができる状態では無かったし、何かあれば部長がなんとかしてくれると思ってたけど、ドキドキした。彼は私たちの前にふらりと立った。そして、ゆらゆらと揺れながら右手を差し出して言った。

 「ちょうだい、ボクちんに、タクチー、ちょおだいっ!!」

 魂の叫びだと思った。捉まらないのがよほど悔しかったんだろう。私は思わずプッと吹き出してしまった。きっと部長も苦笑しているはずだ。こういう、なんてことない体験の共有が二人の関係を深めるきっかけになったりするのだ。そう思って部長を見ると、真剣な顔でサラリーマンを見つめている。そしてひとつ頷き、すくっと立ち上がったかと思うと「どちらまで?」と尋ね、自らの背中を指し、よれよれのサラリーマンを背負い、えっちらおっちら人気のない国道を歩いてゆき、ついに見えなくなってしまった。

 ねえ、神様。私、やっぱり間違っていたのかしら?
 泣きたいはずなのに、どういうわけか涙は一粒たりとも出てこなかった。

 

 
[動画1]
帰ってきたヨッパライ / ザ・フォーク・クルセダーズ
http://www.youtube.com/watch?v=uYOx3_P1sqY

[動画2]
エアウォッシュ トイレCUBEタクシー篇
http://www.st-sendenbu.com/cml/
知り合いの方から、こんなCMがあるとの情報を得ました。

 

孫よ


 
 僕は荷物の配達夫で、荷物を届けに来ただけだった。
 玄関のチャイムを押すと、庭の方から声が聞こえた。回ってみると縁側の奥の障子戸から、半分だけ顔を出しているおばあさんがいた。
「あの、これ、荷物です」
精密機器と書かれた荷物を渡し、受領印をお願いした。
「ハンコね、はいはいはい」
2~3分は待っただろうか。印鑑を取りに行ったはずのおばあさんの手には小さなお盆が携えられており、その上にはふたつの湯飲みが細かく震えながら立っていた。
「あの、すみません、印鑑をぉ」
そう言うとおばあさんは、
「あらやだ、恥ずかしいこと」
と、お盆を縁側に置き、恥ずかしげもなくケタケタ笑って、再び障子戸の奥にゆっくりと消えた。
 かすれた朱肉ではあったが、辛うじて印鑑を押してもらうことが出来た。通常ならば、お礼を言って立ち去るところである。しかしながら、「飲んで行きなさい飲んで行きなさい」と何度も勧められたため、一緒に縁側でお茶を飲むはめになった。スパっと断れないのはやはり欠点なのだろうか。
 湯気の立つ湯飲みから一口すすって驚いた。うまい。思わず聞いた。
「これ、なんてお茶ですか?」
「ほおじちゃっ」
おばあさんは何故か、力むようにして答えた。
 ほうじ茶なら飲んだことがある。しかし、こんなにも美味しいと感じた記憶はない。ひと息に飲むにはまだ熱かったが、冷まし息を強く吹かせながらぐっと飲む。心地良い喉ごしとともに、香ばしさが鼻を抜ける。
 はー。ふっと肩の力が抜けた。

 この仕事を始めてからは、食事を味わって食べたことがない。ほとんど噛まずに丸飲みだ。数少ない情報源であるスピリッツだってSAP!だって相当な斜め読みで、内容の理解度は甚だ怪しい。リポDだって、缶コーヒーだっていつも一気飲みだし、メールへの返信は10文字以内と決めている。
 すべては時間を作るためで、そうして出来上がった時間は、荷物を運ぶ為に余すところなく充てられている。この職業に就く人間はたいてい、知らず知らずのうちに自分の小さな時間たちを会社へ献上しているのだ。

 春で満たされた日だまりの縁側。
 ぽたぽた焼きのイラストみたいなおばあさんと並んでお茶をすするこの時間。なんて贅沢なのだろうと思う。このまま昼寝でもしたいほどに気持ちがよい。

「ウチの孫はねえ、800馬力なのよ」
おばあさんが唐突にそう言った。脳天にスイカが落ちてきた。ような気がした。ぽかぽかとした光のなかで恍惚としていた僕の脳天にだ。
「え? 何がですか?」
きっと僕が聞き間違えたんだろうと思ったのだ。よしんば、正しく聞きとっていたとしても聞き直したくなる発言だ。
「孫よ」
「お孫さんが、なにか?」
「3つなのよ」
「ええ、その3つのお孫さんが、なんか、バリキがどうのって……」
「800馬力なの」
「なるほど」
聞き間違いではなかった。しかし、聞き間違いでなかったが故に、僕は言葉に詰まってしまった。

 悪い癖なのだ。よく分からない事や、言葉がよく聞こえなかったときに、「なるほど」とか「へえー」とか「ふうーん」などといった安易な受け答えをしてしまい、話がずれていく。どうしてなのか、聞き返す事が恥ずかしくなってしまうのだ。でも、今回の場合はちょっと違う。どんなふうに聞いていいのか分からない。
「何がどうして馬力はどこから?」
どうしても禅問答みたいな質問しか浮かんでこない。

 すぐに思いついたのは、怪力の3歳児だった。おもちゃ売り場で駄々をこねれば梃子でも動かず売り場の床を破壊する、癇癪起こして電話帳を引き裂くし、スタックした車をロープと前歯で引き上げる、寝起きの不機嫌で投げたフォークが壁を突き刺して、デコピンで額の骨が陥没し、肩を揉ませれば肉離れ、「アンパーンチ!」で鼻の骨が折れる。
 無邪気さとは裏腹なバイオレンス孫。800馬力がどれほどのパワーを持つのか見当がつかないが、きっと肉離れや骨折では済まないだろう。上手い事を言うつもりはないが、そんな孫を相手にするのは、それこそ骨が折れるはずだ。

「じきに保育園から帰ってくるの」
「お孫さんがですか?」
「かわいいのよおおお」
そう言って相好を崩したおばあさんの湯飲みが、右手の中で砕け散った。
「ひっ」
「あらやだ恥ずかしい」
おばあさんが、雑巾を取りに障子の奥へ消えたのを見計らって、僕は逃げた。一言、お茶のお礼を。と薄く思ったが、その間に800馬力の孫が帰ってきて、「遊ぼうよ!」なんてことになったら、僕はどうなるか分からない。

 次の配達先へ向かう間、あのおばあさんは何馬力だったのか、気になって仕方がなかった。それだけは聞いておけばよかったなあ、と少し後悔した。

同窓会エレジー


 
 中学校の同窓会へ行ってきた。

 案内の葉書が届いたのは2ヶ月前。返信先には当時の私が密かに好意を寄せていた女の子の名前が記されていた。その名はまゆみちゃん。
 にわかにみぞおちの辺りから立ちのぼる中学時代の得も言われぬ空気感。決して新しくはない校舎の渡り廊下に牛乳のケースを抱えて立つ僕がいる。

 何故そんな場面が浮かんだのかは分からないが、そこから手繰り寄せれば芋づる式にニキビ面の記憶がわんさと掘れる気がした。試しに軽く引いてみると、むせかえるほどの懐かしさがたちまち込み上げてきて鼻の奥をじんと刺激する。僕はなんだか思い出すのが怖くなって慌ててコーヒーを飲み懐かしさを流し込んでしまった。ぐびぐび。

 改めて返信先の名前を眺める。彼女の苗字は昔と変わっていない。住所も卒業アルバムに載っているものと同じ。それは、つまり、そういうことである。途端に軽く締めつけられるような心地良い感覚が食道付近を襲い、同時に心臓の鼓動が速くなり顔が上気する。ときめいている僕がいた。びふナイトで皮脂を丸め込んだ夜に夢想したまゆみちゃんとのストーリー。それがいま現実のものとして、手を伸ばせば触れられる距離に存在している。

 いやいやいやいやいや。
 顔をぶんぶんと左右に振り、妄想もたいがいにしておけと自分を諫める。そんな色褪せたビックリマンシールみたいな淡い思いはティッシュに包んで鍵付きの引き出しにしまっておくのが無難なのだ。たったいま思いついた理論で、妄想を母体とするときめきをねじ伏せる。

 期待すればするほど裏切られた時のダメージは大きい。

 あの頃の僕が知らなかったことを今の僕は知っている。そのことを大人になったのだと言えば聞こえはいい。しかし実際にやっていることは、なにかへの期待という瑞々しく純粋なエネルギーを、ぴょんぴょんと飛び跳ねようとしているその熱量を、土鍋の蓋かなんかで強引にむぎゅうと押さえつけることなのだ。

――ね、それって楽しいことなの?

 牛乳ケースを抱えた僕がこちらをじっと見てそう言っている。そんな目をするんじゃない。おまえにもこの気持ちが分かる日が来る。毅然とした表情を作ってあの頃の僕に僕は答える。しかしそれでもあの頃の僕はケースを抱え直しながら、いつまでそうしているつもりなのだろう、今の僕に意義を申し立てるかのようにずっと立ち続けていた。

 ……分かった分かった言いたいことは分かった。僕は彼の視線に耐えられなくなって言った。じゃあこうしよう、今回ちょっとだけ土鍋の蓋を捨ててみる。それでいいよな?

***

 そして今、二つ斜め前の席に彼女がいる。薄いピンクのカーディガンを羽織った彼女はびっくりするほどキュートで可愛らしかった。潤いのある大きな瞳がきらきらと眩しい。それを見た期待という名の熱量はオレンジ色に光り、勢いよくバウンドし始める。待て待て待て待て。焦るんじゃない、焦るんじゃない、こらこらこらこら、ハウス!熱量、ハウス!!こら。

 僕は待っていた。まゆみちゃんの会話に耳をそばだてながらアキラ達と下品な会話をし、話しかけるタイミングを待っていた。そして、「俺さあ、太股が好きなんだよねえ」。アキラがそう僕に切り出したときである。誰かがまゆみちゃんに質問をした。

「まゆみちゃんのダンナって、優しいよねえ」

 反射的に振り返ると、まゆみちゃんと目が合う。ん?という顔をしている。うろたえた僕は知らないフリをしてアキラに視線を戻し言った。「俺はふくらはぎが好きだね」何を言ってるんだ俺は。そうじゃなくてそうじゃなくて、結婚してるじゃんまゆみちゃん。うっそー。わー、でも、あれ?住所が変わってないのはどうして?錯乱しながら疑問をぐるぐる頭の中で回していると、

「まゆみちゃん、婿様って大変なんでしょ?」
「えー、そんなことダンナに聞いてよ」

 という会話が耳に飛び込んできた。

 僕は全てを承知した。姓も住所も変わらないのは当然だ。まさかそういう手で来るとは手が込んでいる。思いもかけない展開に意気消沈しているとトオルが、「俺はねえ、くるぶしが好き。ね、いいよね?」と僕に同意を求めてきた。そんなこと知らんがな。僕はトイレに立った。あんなに光っていた熱量は今はもう灰色に姿を変え、いくら揺すっても反応を示さなかった。

 僕は渡り廊下に立つあの頃の僕を捕まえ、青いジャージの肩口をわしっと掴んで言った。「な?な?な?な?な?結局はこうなるだろ?な?な?な?」あの頃の僕は牛乳ケースを抱えたまま俯いて黙っている。僕はジャージの肩口を掴んでいる。長い沈黙の中、不意に生暖かい風が二人を撫でるように吹いた。

 あ、春だ。この匂いはきっとそうだ。風が春を蓄えて僕らの前にやってきたらしい。僕はその感覚を確かなものにしたくなって、目を閉じ大きく深呼吸をした。春は鼻腔を経由して肺の細胞に溶けていく。間違いなくこの瞬間に春が始まったことを知り、春の吐息をもらしながらそっと目を開けると、あの頃の僕もそれに気づいたのだろう、上目遣いで申し訳なさそうに笑った。