■運転中、狭い道で道を譲った時など、感謝の意として運転手同士が片手を挙げて挨拶することがある。その瞬間が好きだ。なんでか知らないが好きだ。猛スピードでかっ飛ばす車、無理な割り込み、執拗な煽り、狭い道での路上駐車など、路上は悪意に満ちあふれている。ストレスメーターはレッドゾーンを振り切って、キンコンキンコン警告音が鳴り響く。そんな路上において、運転手の良心を垣間見ることができる唯一の行為が、この挨拶なのだ。見つけたことはないけれど、劣悪な環境下で健気に咲くタンポポを見つけた時のような気分だ。そしてその気分は、自分以外の運転手はみんな卑劣で、悪代官ヅラで運転している。という、私の幻想をいくらか氷解させてくれる。
■だけど、手を挙げてくれない人もいる。余裕がないのかもしれないが挙げてほしい。挙げてくれたら嬉しいから、ただそれだけ。遠慮がちに挙げる人もいる。胸元で小さくパーを作っているのだ。いやいやいや。そんな皇室みたいな挨拶じゃなくって、「こん平でーす!!」くらい高々と元気よく挙げて欲しい。天井にぶつけて手首を捻挫したっていいじゃないですか。だいじょうぶだいじょうぶ。なんなら、正座して運転して欲しい。「アクセルもブレーキも踏めないじゃない」なんて正論の意見は粋じゃない。だいじょうぶ、だいじょうぶだいじょうぶ。単にその姿を見てみたいから、ただそれだけ。
■もひとつ、路上には死もあふれている。といっても人間ではなく、動物のことである。都会での運転経験がないので分からないが、田舎においては少なくとも週に一度は何らかの死骸に出くわす。圧倒的に犬や猫が多いが、見慣れない亡骸を見かける事もあり、聞けばタヌキやイタチだと言う。田舎ならではのバリエーションである。
■などと呑気に語っているけれど、実際に出くわすのはすごく苦手なのです。助手席ならば目をつむれば済むけど、運転手はそうはいかない。出来るだけそっぽを向いて視界に入らぬように視線を背けるものの、ハンドルを握ってアクセルを踏み、前に進んでいる都合上、完全に視界から外すことは難しく、「うひいぃあああ」と情けなく泣きながら通り過ぎることになる。ぐにゃりと横たわる姿が痛ましくて見てられないのだ。カラスがつついていたりもする。人間にしろ動物にしろ、魂の抜け落ちた肉塊を見るのは出来るだけ遠慮したい。したいが、しかしその一方で、どんな具合か気になる自分もいる。怖いもの見たさ、か。
■少し前に、沖縄料理の店で飲んだ。海ぶどうを食べた。沖縄料理の店に行った際には必ず注文するのだが、判で押したように毎回必ず品切れだった。で、今回初めて食べることが出来たのだが、うまい。酢醤油につけてもうまいが、ほどよい塩気があるのでそのまま食べてもうまい。味自体はそれほどないが、ぷちぷちした食感が癖になる。遅れて到着した友人に「うまいから食いなよ」と勧める。不審そうな表情をしつつ口に運んだが、「・・・まあまあ、かな」と反応はいまいちだった。しかし、その友人の記憶力もいまいちだった。「へえー、これが水ぶどうなんだ」って、「水じゃねえよ、海、海。そんな、水ぼうそうみたいな言い方やめてくれる?」
■言葉はもろい。食感の素晴らしい食べ物も、瞬時に湿疹レベルへと引きずり降ろされてしまう。オシャレなデザインで大人気の雑貨ブランド「フランフラン」だって、濁点を付せば「ブランブラン」で、タヌキの股間と同じ土俵に立たされてしまう。だたの小さな点々ではあるが、その爆発力たるや核兵器やケツバットと肩を並べる勢いである。言葉は、もろい。そして、その「もろさ」のパワーについて私たちはもっと知らなければならない。(神妙で固い感じの締めは、この記事のもろさを補強するベニヤ板みたいなものです)