いまさら世界の中心で


 
 池脇千鶴が大胆なベッドシーンを演じた映画のことは前から知っていたし、ずっと気になっていた。なにせ、今をときめく売れっ子女優が脱いで魅せた珠玉の純愛映画なのだ。タイトルは「ジョゼと虎と魚たち」。チャンスがあれば見たいと思っていたが、なかなか触手が伸びずとうとうここまで来てしまった。とりあえずイントロダクションでも見てみようとYoutubeをまさぐると、難なく例のベッドシーン動画を発見した。小ぶりのおっぱいではあったが、彼女が躊躇なくブラジャーを外す場面は「ええ!?まさか!あの子が!?」感を存分に味わえるインパクト大のシーンであった。そしてその後、クスクス笑い合いながらのキスからディープキスを経て、いよいよ火がつき加速した妻夫木によるおっぱいペロペロ攻撃開始直後、二人はこんなやりとりを交わす。

 ペロペロされながら池脇千鶴が言う。
「・・・・・・ねえ、なんかしゃべってよ」
 ペロペロしながら妻夫木が言う。
「え? ・・・・・・ごめんそんな余裕ない」

 話は飛ぶが、「愛の新世界」という映画がある。ざっくり言うと、昼は劇団女優、夜はSMクラブの女王様としての顔を持つ鈴木砂羽と、ホテトル嬢演じる片岡礼子との青春友情ストーリーといったところか。当番制で劇団員全員とセックスして全員性病、夜は女王様となって冷やかし客を本物のMに目覚めさせるなど目覚ましい活躍をみせる鈴木砂羽。キチガイ客により命の危険に晒されている片岡礼子のもとへ用心棒役の哀川翔が登場し、サングラスのレンズをバリバリと囓りながら不敵な笑みを浮かべるなどなど、この映画の見どころはたくさんある。そして、その見どころの随所随所に織り込まれる「え、AV?」と見まごうばかりのシーンたち。しかし、しかしそれでも最後には青春映画として、完璧な着地を見せる。そして私はその瞬間、いつも震える。R指定でありつつも爽やかな青春映画。この映画は間違いなく傑作である。(個人的に)

 もうひとつ、「ひとひらの雪」という映画がある。これに関してはもう説明の必要はないだろう。爆発的な衝撃を受けながら鑑賞した。こんなにエロくていいのかと。当時の、アダルトビデオ未経験中高生の脳内がただならぬ興奮のるつぼと化していたことは間違いない。だいぶ前の記憶なので具体的にどうこう言えなくて申し訳ないが、秋吉久美子と津川雅彦の濡れ場のいやらしさたるや、もはや「R指定」というよりも「どうにでも指定」であって、そのシーンに私たちが見いだすのは性欲。ありのままの性欲のみ。まるごと性欲。あるいは、性欲むき出しちゃいました。といった感じの、本能に抗うことなく快楽を追求する人間の記録なのであった。

 ここで話をジョゼに戻す。人気若手女優によるおっぱい丸出しベッドシーンという本来あり得ない超付加価値映像を前にしてチンコがピクリともしないのはどうしてなのか。私は困惑した。まだそういう年齢ではない。もっとイケるはずなのに。結論を言おう。すべての原因は純愛。純愛というモザイクが我々の下半身瞬発力を強烈に抑制していたのだった。

「・・・・・・ねえ、なんかしゃべってよ」
「え? ・・・・・・ごめんそんな余裕ない」

 真っ只中に、こんなセリフ言うだろうか。よしんば、よしんば女が「なんかしゃべって」と問うたとしても完全に無視し、一心不乱にペロペロすることこそが「余裕ない」ことを表現する最良の答えだ。私が思うに、純愛モザイクのかかったベッドシーンなど、見せパンや見せブラと同系列に並べて語られる、謂わば『見せセックス』である。ボクたちワタシたちすごくすごく純粋に愛し合ってるのー。って、そんなこと考えてセックスする人間なんていない。嘘だと思うなら、自分のを撮影して見てみればいい。ほら、一心不乱。

 いまや世界は純愛物語に満ちあふれている。そして、どの物語にもレイプ、不治の病、恋人の死といった要素が方程式のように用いられている。純愛はそういった飛び道具抜きには語れないものなのだろうか。そろそろやめにしませんかそういうの。安っぽいから。

 順番が逆なのを承知の上で言うのですが、ジョゼはちゃんと見ようと思います。ケチをつけたからにはきちんと見なくてはならないと感じているからです。必ず見ます。池脇千鶴のおっぱいを重点的に見ます。それでは、えー、最後になりますが、ひとつだけ言わせてください叫ばせてください。いいですか? 心の準備はいいですか? いきますよー、せーの。

 純愛禁止!!!(もちろん世界の中心で)

 

検査室の鉄則


 転職するにあたって健康診断を受けました。いつも思うのですが、朝食抜きの尿我慢というお決まりの縛りはどうにかならないのでしょうか。ひもじさと膀胱の膨満感から生じるストレスが、診断結果に悪影響を及ぼしたりはしないのでしょうか?

 ぐぐーと腹を鳴らしながらじょぼじょぼと紙コップへ尿を満たしつつ放尿の至福に浸る。という状態を、「オレはなんて節操のない人間なんだ」と気に病むことが診断結果に響かない訳がないじゃないですか。身体ともに健やかなる状態を健康と呼ぶんですよね? いまオレは傷ついている。心を痛めている。だったら、だったらオレは、もはや健康でもなんでもない!

 とまあ、こんなことを考えながらパチンコの景品交換所みたいなスペースに尿コップを置こうとすると、すでに先客のものが所狭しと並んでいて、接触事故は一触即発という緊迫した状況。

 あまりにもずさん。まったくもって尿管理がなってない。こういった状況を見ると「尿の取り違え」に対する疑念がむくむくと湧いてきます。糖尿の気があるのに「異常なし」とされてしまう可能性について「過ぎた妄想である」と誰が断言出来るのでしょうか。第三者機関による抜き打ち検査の必要性をひしひしと感じます。

 もっと恐ろしい話をしましょう。
 プラスチック製のつるつるしたトレーに載せて運ばれ、狭苦しい尿検査室の、所定のテーブルへと置かれる大量の尿カップ。もしこの場面に、長い棒のような医療器具を手にした職員が現れ、誰かに呼び止められたとしたら。振り返ると同時に弧を描く長い棒のような医療器具。そして、なぎ払われる大量の尿カップ。尿、全滅。

 推測ですが、全国の病院の尿検査室には「長い棒のような器具持ち込み禁止」という注意書きが貼られているはずです。この鉄則は医療関係者の間では常識でも、我々一般人にとっては想像もつかないルールなので、クイズにもってこいだと思います。「全国の病院の尿検査室に貼られている注意書きは何?」芸能人雑学王とかで出題してくれないですかね。きっと、伊集院光やラサール石井をもってしても正解出来ないはずです。でもなんとなくですけど、なぎら健壱なら正解出来る気がします。

かゆいところはございません。


 天然パーマの暴挙が抑えられなくなり、5ヶ月ぶりに髪を切った。
 これまで幾度となく訴えている見解ではあるが、敢えて言わせていただきたい。美容室は敷居が高い。サロンと名乗る店舗はなおさらだ。白を基調としたオシャレな外観、オシャレな店員がオシャレな人の髪をオシャレにカットしている。そんな光景を電柱の陰から観察し、私は躊躇する。バリアフリー化された入口の、なだらかなスロープにさえ足がすくむのは、まばゆいオシャレにわななく私自身が築いた心のバリアに原因がある。私たちオシャレ見知りによる美容室難民の拡大を防ぐためにも、これからの美容室はメンタル面のバリアフリーにも目を向ける必要があるだろう。

 オシャレを中和させるファクターの導入など、誰もが思いつくアイデアは手軽に実践可能であるが問題がないわけではない。例えば、バカ殿のポスターを店頭にディスプレイすることにより敷居が下がるかと言えば下がらない。そこには、「我々オシャレスタッフが、敢えてバカ殿を採用するなんて、とびきりオシャレでしょ?」といったスタンスが透けて見えてくるからだ。むしろ、敷居は高くなると言っていい。あらゆるものを取り込み敷居を上げてゆく美容室サイドの、いわゆるオシャレスパイラルに対し、私たちはあまりにも無力である。そう考えると、中和するためのファクターには、かなり思い切ったアイテムを用いる必要があるが、かといって店頭に馬糞をディスプレイ、となると論点にズレが生じてしまい、事態の収拾は困難を極める。よって、「適切な中和アイテムの選出」に関しては、多分にセンシティブさを孕む問題であることから、この場で早計な結論を出すことは避けたい。

 擦り傷を負いつつ心のバリアを突破した私を阻むのは、美容師との会話である。以前、饒舌な店員によってよく分からない髪型にされて以来、彼らとはビジネスライクな距離感を保つように心がけている。たとえ会話をしたとしても、気の利いたことが言えず話がつまらないのではないかと気を揉んだり、興が乗ったとしてもプイとどこかへ去ってしまい話の腰が折れたりすると非常にやりきれない。また、「このあとどこか行かれるんですか?」の問いに、「いや、どこにも」と答える半笑いの自分を鏡の中に見つけてしまわないためにも、なるたけ会話はしたくない。

 回避策としては、雑誌に逃げ込むのが妥当だろう。
 大抵の場合、全く読みたいと思わない「CUT」をあてがわれる。美容室のデファクトスタンダードであるこの雑誌以外に選択肢を与えられていない私は、「カットされながらCUTを読む」というダジャレ行為の強要を甘受しながら渋々ページをめくることになる。そして、知らない外人のインタビューを読む。正確に言えば、用心深く読むフリをする。不用意に読み進めてしまえば、カット序盤にも関わらず残り2ページを熟読のフリでしのぐ必要性が生じてくる。

 以前、カットの最中に突如としてサラミを賞味したくなったことがある。さほどサラミ好きではない私に、恋焦がれるほどのサラミ欲を発動させた要因は、虚ろな視線が捉えたCUT紙上の「サム・ライミ」というごく小さな文字列であった。このように、配分ミスはサブリミナルな欲望を引き起こすトリガーとなり、オシャレ空間でガチガチになった私たちをさらに混乱させる。

 外傷を負って入店、雑誌のペース配分を計算し、ガチガチになり、そして不必要な混乱をくぐり抜け満身創痍となった私たちは、次のステージで、さらに神経をすり減らすことになる。

 「首のほう苦しくないですか?」「はい」、「お湯の熱さは大丈夫ですか?」「はい」、「かゆいところはございませんか?」「はい」、「流し足りないところはございませんか?」「はい」。文字では伝えられないが、トーンや強さ、タイミングがすべて異なる「はい」なのである。勉強熱心な役者なのではない。「何回、はいって言わすのか」という苛立ちを隠蔽するためのオブラートのような気配りであり、不快感を表明することの許されない美容室においては欠かせないメソッドなのである。

「ヘッドアシスト」も上記メソッドの応用である。耳馴染みのない言葉かもしれないが、文字通り後頭部を洗い流す際の、頭部持ち上げ作業に対する補助行為である。大多数の方が、おや? と感じたことからも分かるとおり、多くの場合無意識下において行われているポピュラーなメソッドである。しかし、過剰なアシストは「頭の軽いバカな人間」といった誤解を招く恐れがあり、「タオルの向こうで店員同士がオレを蔑んで笑ってる」などといった、二次被害的な妄想によって自滅する恐れがあることから、推奨できないとする識者も多い。

***

 書けば書くほど読み手との温度差が開いてゆく事実を認識していない訳ではない。そもそもが論ずるに値しないテーマであることに加え、稚拙なレトリック、馬鹿げた妄想などに愛想を尽かし、お気に入りやRSSリーダーから次々と抹消されてゆく光景が脳裏をよぎるたび、キーを叩くペースは著しく乱れ、思考は保身へとなびいた。

 現在の、光ファイバーを筆頭とする大容量高速回線は、動画やファイル交換ソフト等のトラフィックによりパンク寸前であるという。ごく僅かのデータ量とはいえ、蜘蛛の巣のごとく張り巡らされた貴重なインフラの帯域を占有し、0や1に変換された「馬糞」の文字列や馬鹿げた妄想を、縦横無尽に配信しなければならないほどの需要がいったいどこにあるのだろうか。

 ない。
 自信を持って言える。需要などない。だが、意味は、ある。いや、今は無意味でも、ディスプレイのバックライトで夜な夜な青白く照らされたその顔が、この記事によってほんの少しでもほころび、脳髄を揺らすことが出来たなら、その回数分だけ「無意味」が「意味」の・・・、あー、ちょっとすんません、タイムです、チンコかゆい、あーかゆい、かゆいから、掻くね。

 えー、失礼致しました、もうかゆいところはございません。で、なんでしたっけ? そうそう、その回数分だけ「無意味」が「意味」のベクトルへ向けカウントアップされ、そして世界が、コンマ1ミリでもいい、私たち寄りに傾いてくれたら。そんな願いを込めて、この記事を公開しようと思う。私たちとて、いつまでも無力のままではいられないのだし。あーっと、ダメだ。やっぱしかゆい、チンコがかゆいです。かゆいから、掻くね。で、掻いた手で、また、書くね。役に立たないことを、書くね。

路上のユーモア禁止条例


 
 以前に、「赤ちゃんが乗っています」という記事を書いた。
 あのステッカーに対して抱いていた感情への折り合いをつけるため、デロデロとした思いを記事中に吐瀉した。これでもう、例のステッカーを見かけても不毛な苛立ちをおぼえたりしない。・・・はずだった。

 先日、信号待ちの際、例のステッカーを貼った軽自動車を見つけた。でも大丈夫、嫌な気分になったりすることはない。私の中ではもう済んだことなのだから。

 舞妓さんのような「はんなり」した気持ちで目を細めステッカーに目をやる。一旦、視線を戻し、再び目をやった。二度見である。眼球が乾いてしまっても、まばたきが出来ない。なんということだろう。そのステッカーにはこう書かれていたのだった。

 「赤ちゃんがノッてます」    [画像]

 パーーーーーーー!!! パ、パ、パ、パァーーーーーーー!!!
 クラクションを執拗に鳴らしながら、どこまでも追い回したい衝動に駆られた。といえば言い過ぎだが、不愉快がこみ上げてくる。

 「赤ちゃんが乗っています」であれば、「赤ちゃんが乗っているから煽らないで」という善意の解釈をひねり出すことが可能だが、「赤ちゃんがノッてます」に関しては、後続車へのウケを狙った完全なるフザケである。

 画像を見て、かわいい! と感じた方もいるだろう。
 確かに、オムツを穿き片腕を上げた赤ちゃんのシルエットは、どこか憎めない部分もあるにはある。しかしそれは、生命の危険を伴わないインターネット空間だからだ。鉄の塊が猛スピードで行き交う、死と隣り合わせの路上においては、その圧倒的な「どうしようもなさ」と絡み合い、ドライバーのメンタリティーに多大なる悪影響を及ぼし、思わぬ事故を誘発する要因となる。

 「ね、ね、ユーモアのセンス、あるでしょ?」
 とアピールしたくて、これ見よがしに貼っているのだろう。しかし私には「スベり」という致命的な故障を抱えた事故車にしか見えないし、中古車屋のオーナーだったら、間違いなく買い取り査定ゼロをつける。持ち主の顔面を指差し、「ゼロ!」と叫びながら。

 1台見たら50台はいると思え。
 その言葉を信じるなら、「赤ちゃんがノッてます」ステッカーを貼った車が、止むことのない「スベり」を撒き散らしながら、全国各地を走り回っていることになる。

 もし、その車を見かけてたとしても、どうか堪えて欲しい。何があっても、彼らの挑発にノってはいけない。ただ、永遠にスベらせておけばいい。

[関連リンク]
赤ちゃんが乗っています
ステッカー販売サイト

新幹線は欲望を乗せて2


 
 以前の記事はこちら→新幹線は欲望を乗せて 

 それは、ささいな出来事だった。
 私は、友人の結婚式へ出席するために新幹線へと乗り込んだ。出発してすぐ、キヨスクで購入した缶コーヒーとアミノサプリを窓際に並べ、昼食のサンドイッチをそそくさとほおばった。以前にも書いたように、一人で弁当を広げることが恥ずかしい私にとって、サンドイッチはクイック食いの可能なマストアイテムなのだ。

 食パンと食パンにはさまれたゆで卵が、口内の水分を街のごろつきみたいな手つきで否応なしに奪ってゆく。私は缶コーヒーを手に取り、プルタブを引き起こす。パシュ!という快音とともに、香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。その香りを堪能すべく、しばし目を閉じ、息を大きく吸い込んでいた私の脳裏に、なんの脈絡もなく窓際の映像がフラッシュバックしてきた。ん?

 はっ!! と目を開け窓際に目をやる。ないのだった。本来ならば、アミノサプリがあってしかるべき場所に、である。ないないない! 壁のパントマイムでもするように、あったはずの空間で手を上下左右させ、存在しないことを確かめたのだが、目で見て何もないのだから、そんなことをする意味はまったくなかった。しかし、そうせずにはいられなかったのは、なくなる理由が何ひとつとしてなかったからである。

 え? え? ちょっとまってよ。挙動不審を隠せないまま、座席の下、座席と窓のすきまを確認するが見つからない。というか、すきまなんて数センチもないから、落ちようがないし、よしんば倒れたとしても腕にぶつかるはずで、それよりなにより新幹線はペットボトルが倒れるほどに揺れたりしない。

 乗り込んだときの記憶では、後ろの座席は老人夫婦。窓際に座っているのはおばあちゃんで、70歳はとうに過ぎているように見えた。まさかとは思うが、つまり、そういうことだ。・・・はっきり言ってしまおう。おばあちゃんがアミノサプリを盗んだのである。・・・と思ったけど、前言撤回。ゴメン! おばあちゃん。一瞬でも疑ってごめんね。でもさ、なくなるはずないんだ。分かってくれるよね? ね? ね?

 にしても解せない。
 東京行き新幹線やまびこ号車内で忽然と消え失せたアミノサプリ。しみったれた西村京太郎のような貧乏くさいミステリーを、どうやって解決したらいいのか。そもそも解決、しなきゃなんない? コーヒーでサンドイッチを飲み下しながら、トンネルに入った新幹線の黒く塗りつぶされた窓を見ると、アミノサプリを紛失して途方に暮れる男の顔が映し出されていた。やめてくれ、カメラを回すな、テープを止めろ。

 はっ!! これだ。私は瞬時に、ズルズルとだらしない浅い座り方で目線を落とし、後部座席のおばあちゃんを黒い窓越しに監視した。こんな真似して、悪いね。何にもなければそれでいいんだ。見ると、おばあちゃんは、ひっきりなしにレジ袋をしゃわしゃわさせていた。随分前から気になっていた耳障りな音源はアナタだったのですね。しゃわしゃわしゃわしゃわ。しゃわしゃわしゃわしゃわ。監視していた時間は、おそらく1分にも満たなかったはずだったが、しゃわしゃわに耐えつつ監視する私にとっては、その10倍も長く感じられたのであった。

 はあ、やっぱり盗むわけないよな。と、視線を正面に戻した瞬間、しゃわしゃわがぴたりと止んだ。監視継続。そして、私は見たのである。おばあちゃんの膝に載せられた、その、赤茶いカバンの前面にあるサプポケットから、赤いラベルのアミノサプリが取り出され、不器用な手つきで、中央のメインポケットへ移し替えを行っている、その作業の一部始終を。

 ひゃああああ。
 大袈裟でなく、声が出そうだった。それは紛れもなく、私のアミノサプリだった。いや、本当におばあちゃんが買った可能性はもちろんある。しかしその、封の切られてなさ加減と、年寄りはそんな「ハイカラなドリンク」ではなく「緑茶」を好んで飲むということと、一連の状況証拠からみて、窓際から黙って拝借したものに違いなかった。

 しかし私はどうすることも出来なかった。たかがアミノサプリごときで、盗ったの盗らないのと一悶着起こして、友人の幸せを祝う私の気持ちにケチがつくのが嫌だったし、「おいババア、俺のアミノサプリ盗っただろ?」などと責め立てれば、周囲の乗客から老人虐待の目で見られ、形勢不利を得ることは自明だったからである。

 最終的に、私に残ったものは、「なんで? なんで?」という無数の疑問符だけだった。考えられるのは、老人性痴呆症、いわゆるボケ。もしくは、主婦に多いと言われる窃盗癖。どちらにしても、アミノサプリが欲しくなったのだろう。そして、手を伸ばした。事件の動機はいつだってシンプルだ。と、分かったような事を言ってみたのだが、私は今回、新幹線の車内で新たな欲望を発見することができた。このことから言えるのは、新幹線というものは、底なしの欲求を満載した欲望超特急だということである。

そしてもうひとつ、この私が、老人にアミノサプリを盗まれたぼんくらであるということである。