以前、職場に「贄」という苗字の人がいて「贄さん」と呼ばれていました。ディスプレイでは判別しづらいと思いますが、「生贄(いけにえ)」の「贄」です。メモ帳を開いてフォントサイズ72で確かめてみてください。そう、それです。この一文字だけでなんと読むのかといえば、「にえ」。そのままです。幸せな丸い貝。パーツだけ見ればのんきな漁村的イメージです。
そんな「にえさん」、人に漢字を聞かれたときは、『イケニエのニエです』と答えるそうです。なんてネガティブな説明。偶然、耳に入ったとしても無かったことにしたい会話です。しかし、それ以外の適切な説明が考えられないのも事実。
さて、こんな苗字ですからエピソードには事欠かないようです。
病院の待合室。贄さんは待っていました。なんで病院に行ったのかは忘れましたが、贄さんは待っていました。待合室は人であふれ、次は俺の番か私の番かと肩をすぼめ、押し黙って順番を待つだけの空間は、重苦しい一定の緊張感を保っています。その一方で機械的な口調で呼ばれていく名前。
『はしもとさーん』 『たけださーん』 『まつおさーん』 『せきぐちさーん』
誰かが去って行き、新しい誰かが座る。繰り返される世代交代。贄さんは待っていました。なんで病院に行ったのかは忘れましたが、贄さんは待っていました。待合室にいるだけで具合が悪くなっていくのは気のせいかなあ。そんなことも思ったかもしれません。そしてまた何人かの名前が呼ばれ、徐々に待つことに飽き始めた頃また誰かの名前が呼ばれました。それは退屈な待合室に大きな波紋を呼ぶものでした。
『かにさーん』
贄さんのことでした。すぐに自分のことだと気づいたのですが、『え?』『なにいまの?』『蟹って言わなかった?』『かに?』『カニよ!』という会話が断片的にボソボソ飛び交うのを聞いて、立ち上がれなかったとのことでした。そして繰り返されるアナウンス。
『かにさーん、かにさんいませんかー?』
私はこの話を聞いて、オフィスなのに床に倒れこみ、なんなら床にめり込んで笑ってしまいました。まあ、なんとなーく気持ちは分からなくもありません。確かに字面の込み入った感じは似ています。漢字の読めないナースが雰囲気だけを手がかりに、脳内データベースから似たような漢字を全文検索した結果、マッチングしたのが「蟹」。
今でこそ「エビちゃん」人気に後押しされて甲殻類な呼び方もアリな現状で、「カニちゃーん」なんてのも許容されるのでしょうが、この話は10年以上も前のこと、推して知るべしと言えましょう。