あなたに感動あげません


 
 あーあーあー、休みなのに朝から部活なんてホントだるいよ。中学生はスポーツやってりゃいいんだ。ボール蹴ったり転がしたりさせとけば、よからぬ考えは起こさないだろう、チンコ立てんなピッチに立て。みたいなそんなね、考えるよ。よからぬことなんかすんごい考えるよ、それが生業だと言ってもいいよ僕ら14歳なんてのは。口を酸っぱくして言いたいよ。なーんて偉そうな口利いてるけど、うーん、先生たちは覚えてないのかなあ。自分が中学生ん時の煩悩をさあ。たんまり煩悩持ってたはずだよ。いくらスポーツさせたって無駄無駄。

 全然関係ないんだけどこないださ、バレー見てたの。女子バレー。選手の名前も知らないし、どこの国とやってたかも忘れたんだけど興奮したなあ。ラリーも得点も応酬しまくっててドキドキしながら見てたんだ。すごいすごいって。結局、負けちゃったのは残念だったけど。そしたらね、テレビで言ったの。スタジオで応援してた、若くてカッコいい芸能人が言ったの。「感動をありがとう」って言ったの。

 なんだかなあ。
 ずっーと前から微妙だと思ってたけどやっぱ変だよ、この言葉。なにが変なのかうまく言えないけど、なんていうか「感動」と「ありがとう」を無理矢理アロンアルファでくっつけたような感じがするんだよなあ。それとね、その台詞を言ってる芸能人の表情が、感動してるようには見えないの。能面かぶってるみたいなの。言いたいだけなのかな? 言わされてるってのもあるのかな。ね? ね? 感動したでしょ? っていう、テレビの押し付け演出なんだろうね。だから、その芸能人も本当は本当に感動してるのかもしれないけど。

 でもね、もし僕が感動してインタビューされたら「感動しました」とは言えるけど、「感動をありがとう」は言えないなー。言ったら顔真っ赤になるね。国語の朗読で「脳みそ」を「なやみそ」って読んじゃった時くらい真っ赤になるね。なんかさ、白々しいじゃん。嘘っぽいじゃん。あ、それじゃないかな、能面の理由って。無意識に違和感覚えてるんだって、絶対そうだよ。たぶんねえ、気持ちと言葉のテンションが違うんじゃないかなあ、その拒否反応で能面になるんだよ。

 小泉元首相が「感動した!」って言ってたけど、あれはアリだね。なんでかって言うと、うーん、あ、あれだ、感動ってのは「あげるもの」じゃないからだよ。そうでしょ?そうでしょ?そうでしょ? 例えばね、僕がサッカーの試合で物凄くがんばって、ボールに食らいついて、擦り傷だらけになって、足を痛めたりしながら試合に勝ったとする。で、ベンチに戻ったら、みんなわんわん泣いてんの。そこにクラスの女子が駆け寄ってきて、「感動をありがとう」って僕に言ったとするでしょ? 「ありがとう」って言われたらやっぱり、「どういたしまして」って言いたくなるけど、それってなーんか変じゃない?

 だってね、僕が頑張ったのはチームの為とか自分自身の為なんだよ、感動させようと思って頑張ったわけじゃないわけ。「カッコイイ!付き合ってください」って言われるんならまだしも、「感動をありがとう」って言われても僕、困っちゃうし、ちょとムカつくかも。その点、小泉元首相のは自己完結してていいよね。要するに、感動っていうのは、あげたりもらったりするものじゃなくて、自分自身の中から生まれるものなの。だから、真剣勝負の選手をね、自己陶酔の感動ワールドに巻き込んじゃあいけないと思うんだ。

 もし、「感動をありがとう」って言いたいなら、
 漫才を見て「笑いをありがとう」って言ってあげなよ。
 傍若無人な若者を見かけたら「怒りをありがとう」って声を掛けなよ。
 車に引かれそうになったら「恐怖をありがとう」って大声で叫びなよ。
 頭にネクタイ巻いてるオヤジがいたら「哀しみをありがとう」って呟きなよ。
 同期が出世するなら「劣等感をありがとう」って執拗にメールしなよ。
 恋人の浮気が発覚したなら「嫉妬をありがとう」って血文字で綴りなよ。
 宇宙人が地球を壊滅させるなら「絶望をありがとう」ってテレパシーしなよ。

 ここまで筋を通すなら、「感動をありがとう」って言ってもいいんじゃないかと思うんだ。美化したい感情だけに「ありがとう」ってつけるのはずるいよずるいよ。あ! ちょちょちょ、いまパンツ見えた!風がぴゅうって吹いて白いのがチラっと見えたよ。わーいわーいわーおわーお、興奮をありがとう! って、あ・・・。

 

新幹線は欲望を乗せて


 
 東京に向かう新幹線の車中、何かが臭う。座席を倒して寝ていると、時折つんつん鼻先を刺激してくるのだ。強烈に、という訳ではない。例えてみるならば、耳元でぷーんと蚊の声がするのでガバッと起きて電気を点けても蚊はいない。寝入りばなに再び蚊の声、飛び起きて電気を点ける。やっぱりどこにも蚊はいない。臭いの周期は、夏の夜に繰り返される不毛な寝起きに似ていた。

 ふと見ると、隣のサラリーマンが胡座をかいている。革靴から解き放たれ、露わになった黒いシースルー靴下の湿り気は、乾いた車内の空気にみるみる溶けて、私の鼻先にも届いたのだ。「我が家じゃないんだから」と、靴を脱ぐ行為に対して非難の横目をくれたが、よく見れば私もスニーカーを脱いでいた。……まさか。
 トイレに行って靴を脱ぎ、立ったままの姿勢で我が足を鼻先に寄せて検査する。バレリーナにでもなったみたいだった。大丈夫、臭ってない。発臭源はやっぱり奴だ。ついでに用を足してから席へ戻ると、サラリーマンは弁当をガツガツしていた。窓際にはペットボトルのお茶。スポニチを細くたたんで野球欄に食い入っている。彼の「我が家感覚」が、短時間で鋭く研ぎ澄まされていることに私は驚いた。
 私は、新幹線の中で弁当を食べるのが苦手だ。隣に知人がいるなら安心して食べられるが、一人では不安なのだ。混雑した新幹線の車内、ぐるりと席を見渡せば他人ばかり。つまりアウェイである。そんな中で弁当を食うのが、ひどく心細くてたまらないのだ。

 食欲、性欲、睡眠欲。
 本来、欲を満たしている状態というのは、とても無防備であり、恥じらいを覚えるものである。だから人間は、道端ではウンコもセックスもしないし、寝たりもしない。それが人間特有の美徳である「慎み」というものだ。と松尾スズキがエッセイで書いていたのを読んで大きく頷いた。アウェイの心細さに震えながら、弁当の匂いで近隣乗客の空腹に火をともさぬよう、隠れるように弁当をかき込み、口いっぱいに頬張っているときに通行人と目が合い、その恥ずかしさに目を伏せる私は、決して特別な存在ではなかったのだ。

 私は危惧している。
 先月、新幹線が全面禁煙化となった。非喫煙者にはあまり関係のない話。と思うのは間違いである。増大する喫煙者の不満をいかにして抑えるか、という問題が大きく立ちはだかっているのだ。つまり、禁煙化のトレードオフとして、吸えないイライラをなだめすかす為に、喫煙者の食欲を満足させなくてはならなくなった。え?それはJRが解決する問題であって、それこそ非喫煙者には関係のない話じゃないか。と思うかもしれないが、それも間違いである。 例えば、こんな具合に。

 新幹線に乗って寝ているあなたの鼻先に、香ばしい匂いが届いて目が覚める。見ると、左隣の客がぺヤングをすすっている。ぷいと鼻先を逃がせば、右隣の客は鍋焼きうどんをはふはふしている。前の席からジュワー!と聞こえ、背もたれの上から覗いてみれば、鉄板の上でステーキが肉汁をほとばしらせている。

 無法地帯である。
 食べ物の匂いと体臭がスクランブル交差し、臭いの無法地帯となる新幹線。メニューの幅を広げすぎてダメになった喫茶店のような、そんな車内で旅を満喫できるのだろうか。飲食車両を設けるべきではないのか? せめて火傷のリスクが高い鍋焼きうどんは撤廃できないか? などといった本末転倒な事態に陥ってしまうのではないかと、私は危惧しているのだ。

 食のサービス向上に伴う「我が家感覚」の拡大防止と、横行するグルメ番組で失われた、食欲に対する「慎み」をどうやって取り戻すかが、これからの新幹線車内を大きく左右すると言っても過言ではないのだ。

 いや、過言かもしれないのだ。

 

『半』のボーダーライン


 
 手際の悪い運転手だった。
 荷物を載せたいのだと伝え、トランク前で待っていたが一向に開かない。どうしたのだろうと運転手を見ると、慌ててボンネットを閉めている。新人のリストラ転職ドライバーなのだろう。丸く分厚いメガネを掛けたその男性は、オロナミンCの看板で微笑む大村崑によく似ていた。親近感を覚える顔ではあるが、あたふたと動きだけは忙しそうな仕事ぶりには閉口した。「頼むよ、崑ちゃん」という台詞が舌先で待機する。やっとのことで荷物を積み終えた。

 崑が車に乗り込み運転席のドアを閉める。バフンと音がした。
 崑は再びドアを開け、そして閉めた。バン!と鋭い音がする。
 半ドアだったのである。説明するまでもないが、閉まりきっていないドアのことだ。

 何気ない光景だが、これって実はすごい事なのではないか。ドアを閉めた際の音、もしくは力加減で、「半」であると判断したのである。車には、ルームランプを点灯させ、半ドアであることをアピールする機能があるが、崑はそれを使わずに半を悟ったのである。私は、崑に聞いてみた。

「今の半ドア、どうして分かったんですか?」
「どうして、って言われ……んー音ですかね」
「それじゃ、音で半が分かったんですね?」
「半? あ、ええ、まあそうですね」

「恵比寿までお願いします」
 車が走り出す。私は考えていた。動物は「半」を判断できるのだろうか。
例えば、通常より半分の量のエサを犬にあげたとする。犬はしっぽを振りながらエサをぺろりと平らげ、口の周りをぺろぺろ舐めながら「めちゃウマいやん、このエサ」などと考えるだろう。
 しかし気が付かないのだ。「半」であることになど、まるで気が付かないのだ。気付くのは夜中を迎えた頃で、それも、「なんや知らん、ぐうー、腹鳴っとんねん」などと、ぼんやり考えるだけだ。

 つまり、「半」を判断出来るのは、人間だけなのである。であるが、生まれつきその能力を備えている訳ではなく、経験を重ねることにより能力が身に付き、そして、重ねた経験に比例しその精度が増してゆく。

 しかしながら、世の中には様々な「半」が存在する。その全てに「半」のジャッジメントを下すことは可能なのだろうか、と考えてみる。半半半半半、半生(なま)。バックミラー越しに人生経験が長いであろう、崑に聞いてみる。

「半生はどこで分かりますか?」
「焼き具合、ですかね」
「具体的に言いますと?」
「噛み切ったレバーが、妙にジューシーだった時ですかね」

 なるほど。確かに、その断面を確認すると血がしたたっている事がある。半生は歯応えと肉汁で判断するのだそうだ。

「ステーキはミディアムレアが好きですけどね」
「へーそうですか」

 好みの焼き加減はいま関係ない。半半半半、半ズボン。崑に聞く。

「どうやって半ズボンを見分けますか?」
「膝より短いやつ、なのかなあ」
「なるほど、長さが半分になったズボンを言うんですね?」
「ええ、まあ、そうです」
「じゃあ、右が股下ゼロで、左が足首まであるのも半ズボンですか?」
「え、それは……」
「これも、長さで言えば半分ですよね」
「あ、ええと」

 この後、半ズボン、短パン、ホットパンツの違いを聞いてみたが、崑は泣きそうな顔で困り果てている。

「運転手さん、顔が半泣きですよ」
「こんなに半ズボンのことを考えたのは初めてです」

 顔つきが湿ってきたので、この質問は飛ばそう。半半半半、半殺し。聞く、

「どこまで痛めつけたら半殺しですか?」
「穏やかでない質問ですねえ」
「半殺しにしたことはありますか?」
「ないです、ないです」
「じゃあ分からないですよね」
「ええ。でも、半殺しにしたい奴はいますけど」
「じゃあ、その人をどこまで痛めつけたいですか?」
「裸にして、アロンアルファでコマネチのポーズに固定します」
「それは精神的な半殺しですね」

 理解不能だし、なんだか怖い。崑の深部を知るのが怖い。深追いせずに質問を変えた。半半半半半、半裸。ツ黴€

「どこからが半裸になりますか?」
「難しいですねえ」
「じゃあ、今から少しずつTシャツ脱ぎますから、半裸の時点でストップって言って下さい。行きますよ」
「え? あ、はい」
「どうですか?」
「まだの気がします」
「このへんですか?」
「そうですねえ、まだ……」
「そろそろかな?」
「ストップ!」

 乳首を越えたら半裸。なるほど分かりやすい。膝を打つジャッジメントである。崑の人生経験も伊達ではない。感心していると、崑が言った。

「お客さん、面白い方ですねえ。私も勉強になりました」
「じゃあ、メーター半額にして下さい」
「それは出来ません」
「そこをなんとか」
「半殺しにしますよ」
「コマネチ!」

 崑の脂ぎったメガネが、バックミラー越しに鈍くキラリと光った。ツ黴€

 

愛すべき、チラ見ズム。


oppai2.jpg

http://www.i-am-bored.com/bored_link.cfm?link_id=12192

 おっぱいチラ見ゲームというのがあるらしい。
 隣に座った女性の胸元にマウスカーソルを置く。すると男の視線も胸元に移動。見ている間にゲージが増え、1分以内にフルになればクリア。チラ見がバレると、ビールの缶が降ってきてゲームオーバーである。早速プレイしてみた。

 OH!くだらない。
 すぐさま作者に電話をかけて「Are you foolish?(あんた、馬鹿?)」とだけ言って切ってやりたいほどだ。チラ見とすっとぼけの表情が精巧に再現されていて完成度が高い。クリエイティブのエネルギーを最高で最低にくだらないゲームに惜しみなく費やす。その精神にシンパシーを覚え、鳴り止まない心の拍手を送った。そして気付くと私は小一時間、このゲームに熱中していたのである。これは意外にハマる。

 で、このゲームをやってて思ったのは、例えばキャバクラで胸の大きい女の子から、「気が済むまで見ていいからね!」という許可を取得したらどうなのかということ。もちろん男は、「いいの!?ホントに!?」と嬉々として凝視するかもしれない。しかしきっと30秒も経たないうちに「ふうーん、なるほどね」とか言いながらピスタチオをかじって、「もっと濃いの作ってよ」と天井を見上げ水割りを飲み干すことでしょう。どうして?どうしてなの?教授。

 つまらないんです。じっと見るのは実につまらないものなんです。チラ見の醍醐味は、「見てるのバレるかもしれない」というリスクの中にしか存在出来ないからなんです。つまり、「あまり見ちゃいけない」と「でもやっぱり見たい」という二律背反の中でのみそれは精彩を放つのです。はー、なるほどそうなんですか。ところで二律背反って何ですか?それで使い方合ってるんですか?教授。

 さて、ここまでは「男がしでかす愚かな行為」としてのチラ見を書いてきました。しかしなにも、やましいチラ見ばかりではありません。例えば、授業中に見るバスケ部中野君の横顔に対するものだったり、運転中の沿道に咲く満開の桜に対する視線だったり、卵の値段を見比べる主婦の視線でもあり、飼い主に対する犬のチラ見だったりするわけです。

 決して、「チラ見」=「下衆な視線」ではない。今回はこのことを声を大にして言いたい。そしてもうひとつ、最近はチラ見の学問的な研究もされていて、その中で「クイック」(注1)や、「ターン」(注2)、「ランデブー」(注3)などと言った用語も確立され活発な動きも見らるようです。たった今活発になりました。

 私はチラ見をしている人を見るとなんだか嬉しくなります。「あ、いま、チラって見た」と、心の中で呟きます。チラ見してる人をチラ見する私。それはチラ見のスクランブル交差点。複雑な人間模様です。例えば、人間とは思えないような冷徹な人であっても、チラ見しているのを見つけたら少し好きになれる気がします。この人も人間なんだと。だけど彼はこう言われるのです。

 「オヤジ、テメエ、何見てんだよ!」
 むくむくに太った女子高生に、そう言われるのです。
 見つかったらゲームオーバーです。

注1  チラ見の二度見のこと
注2  チラ見の後、逆サイドまで視線を逸らすこと
注3  両サイドからの二人同時チラ見

おまけ 二律背反とは 
     3番目の答えが秀逸です。この答えでやっと意味が分かりました。
     http://oshiete.eibi.co.jp/kotaeru.php3?q=15866&rev=1

アイーン、アイ・ラブ・ユー


 私の好きなギャグに志村けんの「アイーン」がある。桃井かおりの、手の甲を顎下に運ぶ気だるいモーションに似た動作と、口角を吊り上げアゴ勇の顔面形態を取り入れることで完成するあのギャグである。大きな特徴として「意味が分からない」という点が挙げられる。日常の些細な出来事をネタにして客の共感を得る、いわゆる「あるある系」の笑いが蔓延する現代では出て来づらいギャグである。

 即座に思いつく同様のギャグに「ガチョーン」がある。「ガチョ」の口をすぼめて発する語感の脱力加減と、除夜の鐘の余韻を思わせる「ーン」とを組み合わせた、緩和と諸行無常のコンビネーションギャグ。これもまた意味不明。さて、好きとは言いつつ私は一度も「アイ~ン」をしたことがない。本来の用途に鑑みれば、一般人がお手軽にマスターできるものではないと思うからだ。

 コントにおいてテンポの良いギャグを積み重ね、風向きを整え、徐々に速度を上げゆき、それが最大となったところで収束へ向けて一旦、完全な無風状態をつくる。残されたのは、もはやあの言葉のみ。永遠とも思える静寂が流れる。はちきれんばかりの緊張感に耐えられずゴクリと誰かが息を呑もうとしたまさにその瞬間、絶妙のタイミングで彼(殿)が言う。

 『アイ~ン』

 これが、このギャグが持つポテンシャルを最大に引き出すシチュエーションである。素人が生半可な気持ちで手を出せば無傷ではいられない。相当なひっかき傷を負うはずだ。だが現実としては、お手軽版アイ~ンが全国各地で日々量産されている。かといってそれを否定するつもりは毛頭なく、むしろ微笑ましいとさえ思っている。ただ、もう少し使い方を考えたほうがいいのではないか。

 たとえば、飲み会で酔いに任せて連発するのは止めたほうがいい。締めのタイミングで使う事を提案してみる。 『部長!もう時間だって白木屋の人が言ってます』 『お、そうか』 『じゃあ・・・ひとつお願いします』 『俺が?』 『ほら、みんな静かに!部長が』静まり返る座敷。軽く咳いをして立ち上がる部長に注目が集まる。

 『えー今年もいろいろありましたけれども、来年もよろ・・・アイ~ン!』

 吉本新喜劇よろしくみんなでコケて宴会終了。なんて素敵な締めだろう。奇妙な一体感が生まれ社内の不和も軽減され、月曜からの業務能率もアップ。いい事づくめである。例えばこれが別のギャグだったらどうか。『部長!もう時間だって和民の社長が言ってます』 『お、そうか』 『じゃあ・・・ひとつお願いします』 『俺が?』 『ほら、みんな静かに!部長が』静まり返る座敷。軽く咳いをして立ち上がる部長に注目が集まる。

 『えー今年もいろいろありましたけれども、らいね・・・さんぺー、です』

 ゆるゆるだ。締まってない。ふざけるんじゃない。おにぎり野郎!ソリッド感のないふやけた茶漬けみたいなギャグは座敷から酔いを奪い笑みをも奪う。最悪の場合、宴会を延長し一からの出直しを迫られる。二次会は大荒れ。ぎすぎすした感情も生まれ、焼きとりの串でフェンシングし合う者も現われる。

 意味が分からなくたって、こんなにもプラスの作用を生み出す「アイ~ン」。前者の例からもその秀逸さが分かるだろう。だから、その意味を追い求めることに意味はない。ましてや考察なんてナンセンス。こんなに長ったらしい記事読んだ、あなたの苦労もとんだ徒労。

 というわけで私は謝ります。貴重な時間をごめんなさい。許してもらえるか分かりませんが、ほんとうにすみま・・・アイ~ン!