セプテンバー、犬。


 あるところに犬がいました。
 犬は、腰のまがったおじいさんと暮らしていてそれはたいそう可愛がられていました。犬はおじいさんのことが好きでした。

 朝・昼・晩の散歩に出る前、おじいさんは小屋の前のビールケースに立って見下ろしながら「おい、犬。行くど」とビジネスライクに言い放つのが常でした。

 それでも犬はおじいさんのことが好きでした。

 ヨタヨタ歩くおじいさんの後ろをヒタヒタ追って、朝の駅前に並んで立ちました。改札から吐き出された女子高生の群れがおじいさんと犬を取り囲みます。

「キャーかわいー!」
「そうじゃろうそうじゃろう」
「ちょーかわいいー!」
「いくらでもなじぇたらよかろう」

 そうして女子高生が犬を撫でているあいだ、おじいさんはほぼ半目になりながら女子高生の空気を深呼吸で体いっぱいに取り込み「ええのう、ええのう」と帰りの道すがらで呟きました。

 それでも犬はおじいさんのことが好きでした。

 昼は、あてどなく歩きました。そうしていると、大根畑から突如として現れたあき竹城似の中年女性が「あらかわいごどー」と近寄って来ました。おじいさんは歩みを止めることもせず完全に無視を決め込みました。

 それでも犬は、おじいさんのことが好きでした。

 夕方は高級住宅街のスーパー前に並んで立ちました。

「きゃあ、かわいらしい。なんて名前かしら?」
「犬じゃ」
「へ、へえー。それにしてもラブリーね」
「そうじゃろそうじゃろ、なじぇたらよかろ」

 そうして、スカした大きめのサングラスをかけた彼女たちが犬を撫でているあいだ、おじいさんは半目でもってお洒落かつグレードの高い空気を大きく体内に取り込みクラクラしつつ、胸の谷間に視線を注いだりしました。

 そのときです。おじいさんが密かに「ボンキュッボン」と名付けている豊満な体つきの若い婦人が「ちょっと!ジジイ!何見てんの!?」と叫び出しました。バレたのです。おじいさんは脱兎のごとく駆け出すと、犬が追いつくのもやっとの早さでどこまでもどこまでも、どこまでも走りました。

 人気のない山裾のあたりまで来たとき、傍らに湧き水の立て看板を見つけました。おじいさんは這いつくばるようにして夢中で水を飲みました。犬もたまらずぺしゃぺしゃ飲んだのですが、あまりに夢中で飲んだので酸欠で湧き水に落ちてしまいました。「犬!」そう言って手を差し伸べたおじいさんも落ちました。

 おじいさんは呼吸の荒いずぶ濡れの体を草むらに横たえ、しばらくのあいだハアハア言っていましたが、ちらりと犬を見やると突然、笑い出しました。ひきつけを起こしたように笑いました。そして、笑いすぎの酸欠でまた落ちました。

 犬は、おじいさんのことを、ずっと前から好きでした。

 数年後、おじいさんは病気を患って入院し、犬は孫娘によって引き取られました。犬は、もうおじいさんには会えないような気がしていました。孫娘の家族は犬のことをロッキーと呼びましたが、よもや自分のこととは思えず、ただおじいさんに会えない寂しさでみるみる痩せてゆきました。

 犬は、孫娘の膝の上でした。「ロッキー」という名前にも慣れてきたというのに声が出すことが出来ません。扇風機のぬるい微風を受けながら、ただ、弱々しく伏せるのみです。セミのうるさいジージーが止むのと同時にカルピスの氷がカランと音を立てました。妙な気配を察知した犬が薄目を開けると、そこに、おじいさんが立っていました。半透明のおじいさんでした。犬はうれしさたまらずシッポを振ったのですが、おじいさんは犬に目もくれず、孫娘の首筋あたりで鼻をくんくんさせるばかりです。

 すっかり忘れられてしまったのでしょうか。犬は悲しくなって目を閉じました。するとおじいさんが「おい、犬」と低く呼びました。目を開けてみると、ふわふわ宙から見下ろしながら「おい、犬。行くど」とビジネスライクに言いました。

 犬はうれしさのあまりワン! と飛びつきました。そして、おじいさんに撫でられながら振り返ると孫娘の泣いている姿が見えました。傍らの母親は「最後に、ロッキー、笑ってたね」と言って、犬の体と孫娘の体をさすり続けています。

 向き直るとおじいさんも泣いていました。もう、この部屋で、泣いていないのは犬だけです。犬は、泣いてないことにするためにおじいさんの顔を舐めました。とてもしょっぱい味がしましたが、犬は我慢して舐め続けました。

 それは9月の、ひどく暑い日のことでした。

かつて私は犬だった。


 かつて私は犬だった。野良を駈けては蝶を追い、モグラをほじって、排泄物を嗅ぎ回り、退屈しのぎに畑の老人を吠え立てた。ひもじいときはネズミやスズメを追って糊口をしのぎ、胃腸のために草を食み、沼の水で乾きをうるおすと、風に吹かれながらいつまでも眠った。

 かつて私は鳥だった。寝ぼけまなこの住宅街をかすめ飛び、山と積まれたビニールを次から次へとつついて回った。荒々しい息づかいをした2つのシルエットが、ベランダに佇む私を見て驚いている。小学生の投げる小石をかわしつつ、公園をふっと飛び立てば風はいつも向こうからやって来た。私はいつも、風に吹かれてばかりいた。

 かつて私は猫だった。塀を伝い、側溝を飛び越え、草の匂いを嗅ぎながら空地を抜け、知らない誰かに撫でられながら、どこまでもどこまでも右へ左へ知らないどこかへ歩き続けた。ペティグリーチャムを補給するための帰路もやっぱり、知らないどこかだった。そして私は、扇風機の風に吹かれながら膝の上でいつまでも眠った。

 かつて私はリモコンだった。目には見えない光で、毎日毎日数えきれないくらい番組の変更を指示した。ボタンの数字が読み取れないほどに年齢を重ねてもなお、ソファや座布団や新聞の下で「(私は)ここにいるよ」と叫び続けた。そして私はテーブルの上で、くしゃみ・ため息・寝息に吹かれてばかりいた。

 かつて私は人間だった。会社の底辺に位置し、次々と押し付けられる些事細事を、さほど嫌がらずに片付けるものの、何度もやり直しを命じられた。胃を痛めるほどの心理的負荷を解放するため、夜な夜な「おっぱい」などの文字列をまき散らしてはディスプレイ越しにニヤニヤし、ひんしゅくを買った。それでもなお愚行を止められず、読み返せば羞恥に顔を赤らめ、そして後悔に青ざめ、ああ、いっそのこと、私は貝になりたい。屋上の風に吹かれながら、そう思った。

 そして私は誰の言葉も聞かず、誰の視線も気にすることなく、固い殻に守られながら傷口を癒し、そして自分自身と向き合い続けた。どれくらいの時間が必要なのかは分からないけど、心も体も生まれ変わったなら、長く長く伸びた髪の毛で股ぐらを隠しつつ、人間として、皆さまの前に現れたい。たとえ、たとえ皆様の、冷たい視線が吹いたとしても。















生まれ変わった私を見て!

※こんなイメージです。

メロンソーダ


 窓際の席、後ろ姿が見えた。
 呼び出された理由がなんとなく分かっているから、足取りが重い。無言で向かいの席に腰掛けると、ストローで氷をつつく手を止め目を上げた。僕は、彼女の、この上目遣いがすごく好きだ。

「ひさしぶり」

 そう声をかけると再び目を落とし、氷をもてあそびはじめる。深夜の国道を、気が触れたようなスピードで走り去るトラック。沈黙。時間の感覚が麻痺するほどに僕の胃はキリキリと痛んでいて、ああ、もう、この空気、我慢できない。

「あのさ、ハナシっ……」
「ご注文の方お決まりでしょうかー?」

 唐突に店員が現れた。
 僕は手元のメニューを開き、最初に目に入った文字列を口にする。

「あの、コーヒーで」
「お砂糖はおつけいたしますか?」
「はい」
「ミルクはおつけいたしますか?」
「いや」
「ホットとアイスがございますが」
「え、じゃあ、アイスで」
「では、お砂糖ではなくガムシロップをお持ちしますがよろしいですか?」
「えーと、はい」
「ご注文繰り返します、アイスコーヒーおひとつ、でよろしいですか?」
「はい」
「ガムシロップありの、ミルクなしで」
「ええ」
「ではごゆっくりどうぞー」

 誰も渡ることのない横断歩道の青が、急げ急げと点滅している。
 店員によって作られた二度目の沈黙。それを破ったのは彼女の方だった。
  
「そういうところが好きじゃないの」
「え? なにが?」
「今の注文、効率悪すぎ」
「いや、今のは店員のせいだし」
「鈍臭いって言ってんの」
「だから今のは」
「あんたが鈍臭さを呼んでんのよ」
「僕が?」
「そうよ」
「あ、いや、だとしても、それがなんなんだよ」
「別れたいのよ」
「……」

 やっぱり。
 たぶんたぶんと思ってたけど、やっぱり。

「そうか」
「そうなの」
「……じゃあ僕もひとつ言わせてもらっていいかな」
「なによ」
「これって、別れ話でしょ?」
「そうよ」
「じゃ、メロンソーダはないよ」
「は?」
「なんなの? その色」
「別にいいじゃない」
「なんか、沼みたいだし」
「意味分かんない」
「色合いが沼だって言ってんの」
「意味は通じてるわよ!」
「こういうときって、男・コーヒー、女・紅茶でしょ?」
「ドラマの見過ぎよ」
「目がチカチカするよ!」
「知らないわよ!」

 僕たちは、本当にこれで終わってしまうのだろうか。
 嫌だ、嫌だ嫌だ。僕は、彼女が大好きなんだ!

 三度目の沈黙を破ったのは、店員だった。

「サイコロステーキお待たせしましたー」
「いや、頼んでないですけど」
「あ、大変失礼いたしましたー」

 ホラね、と言わんばかりの彼女の視線が突き刺さる。知らない振りをしてふと横を見ると、3つの皿を抱えた別の店員が厨房の方からこちらに向かってくる。

「カツオのたたきサラダお待たせいたしましたー」
「あの、頼んでませんけど」
「失礼いたしました、カツオのたたきご膳のほうですね」
「いやいや、それも頼んでないです」
「カツオのたたき単品お待たせいたしましたー」
「消去法!」
「はい?」
「残ったやつが正解って訳じゃないからね」
「誠に申し訳ありません、大変失礼いたしましたー」

「ちょっと待って!」
「はい、なんでしょう?」
「アイスコーヒー頼んだんですけど」
「あちら、ドリンクバーとなっておりますので」
「え?」
「セルフサービスでお願いします」
「えー!」
「ねねね、ついでにメロンソーダ汲んできて」
「うん!」





メロンソーダ



 

とびだせ! 柔肌ポリス


「オユハリヲ、カイシシマス」曇りガラスの向こうから抑揚のない音声が聞こえる。全身を包むやわらかなお湯を想像すると、刺すような冷気が少し和いだ。柔肌ポリスは当直の夜になると、美津子さん宅を重点にパトロールを行った。入浴を終えるまで、不審者が近づかぬよう風呂場の外窓に立つ。それが彼流のやり方だった。

「今日はやけに長いな」柔肌ポリスは呟いた。風呂場でなにかあったのではないかと気が気ではなかったが、白く濁ったガラスの前では何ひとつ手がかりを得ることは出来なかった。「マジ、曇りガラスってすげえな」柔肌ポリスは、曇りガラスのプライバシー保護能力に大いに感服するのだった。

 いくら警察官とはいえ、風呂場の外窓に立てばたちまち不審者である。しかし彼は、特殊な能力でそれを回避した。日中に蓄えた光を夜間に発光する能力で、光る部位は顔面。リモコンのボタンや、蛍光灯のひもに利用されているものを想像していただきたい。ただひとつ違うのは、発光色が緑ではなく純白であること。おかげで、夜道に佇んでいても背の低い街灯としか認識されないため、怪しまれることは皆無であった。

 しかし20代前半のデリケートな時期は、この能力を疎ましく感じていた。ブレーカーが落ちるたびに起こされたり、耳かきのアシスト、夜間撮影の補助光などは日常茶飯事。キャンプの肝試し大会では先頭を歩かされ、ゴール地点にたどり着く頃には無数のクワガタや蛾が顔面に群がっていたり、テントで就寝していると「消せ」と言われ、発光をコントロール出来ない旨を告げるとあからさまな舌打ちを受けた。などというエピソードに関しては、枚挙にいとまがないのでこの辺にしておこう。

 だから、ディスコに行こうと誘われたとき、柔肌ポリスは困った。行きたいけど光っちゃう。散々思案した挙げ句、光を蓄積しないよう頭に毛布をかぶり、部屋の隅っこで日中を過ごした。そして作戦は成功した。光っていないのだ。意気揚々とアルコールを摂取し、ズンズンと響く重低音を腹部に感じつつ狂ったように踊った。しかしここでもまた、新たな能力を発揮することになる。

 顔面が、ブラックライトに反応していたのだ。暗闇のなか、ブラックライトの点滅に合わせ、彼の顔だけが真っ白に浮かんでは消えた。「バカ殿だ」「いや亡霊だ」「ちがう、バカ殿の生き霊だ」口々にささやき合う客たち。静まりかえるフロア。まさかそんな能力まで有していたとは。相当なショックを受けた。そして悲しかった。一刻も早く店を出たい。柔肌ポリスは脱兎のごとく駈け出した。しかしそのとき、ガタイのいい黒人が彼の肩を押さえ、親指を立ててウインクをしながら言った。「it’s cool!!!」

 「ウォー!!!」客たちの歓声によってフロアは異様な高揚感に包まれ、柔肌ポリスは一瞬にしてスターとなった。こういった空間では「目立つ」イコール「人気者」なのである。誰もが彼の周りで踊り、身をすり寄せ、飲みきれないほどのアルコールをごちそうになった。とても楽しかったし、気分が良かった。

 そして柔肌ポリスは、小柄で可愛らしい女の子といい感じになった。「ね、別のとこで飲まない?」思い切って言うと彼女は黙って頷いた。正直、柔肌ポリスは飲みに行くなんてどうでもよくて、とりあえず、彼女とキスがしたかった。それだけだった。店を出て外壁に手をつき、彼女の動きを封じると彼女は潤んだ瞳を静かに閉じた。「よし!」心でガッツポーズを決める。そして柔肌ポリスも目を閉じ、はち切れんばかりの鼓動と荒い鼻息を悟られないように顔を近づけたその刹那、彼女が叫んだ。

「やだ、まぶしい!」目を開けると彼女は、週刊誌に写真を撮られた芸能人みたいに手をかざしていた。そしてその光源は、他でもない柔肌ポリスの顔面であった。日中の対策は万全だったはずだし、ブラックライトは見当たらない。「ど、どうして!?」柔肌ポリスが呆然としている隙に、彼女はどこかへと消え去っていた。

 性的興奮による発光。
 その後しばらくしてから判明した新たな能力だった。「なぜこんなにも光る必要性がある?」悩んだ末に相談をしてみたが、優秀な溶接工である友人は「なんか、今の、名言っぽいね」としか言わなかった。柔肌ポリスは、なんだかこそばゆい気持ちになってその場では言葉を濁したものの、どう捉えてよいのか判断がつきかねたし、よくよく考えてみても全く意味が分からなかった。

 そんな昔話を思い起こしているうちに、風呂場の灯りは消えていた。「しまった! 美津子さんごめんなさい」柔肌ポリスは、パトロールを完全遂行出来なかったことに関して心から謝罪し、「明日こそは、明日こそはきちんとやりますから!」と夜空へ向けて意気込みを語った。

 そして柔肌ポリスは自転車にまたがってよろよろと走り出したが、ギッとブレーキを鳴らして急停車し、風呂場の窓を振り返って「ボクが、守りますから。ボクが、いつまでも、いつまでも照らし続けますから」と顔面を白く光らせながら小さな声で呟いた。

美津子37.5歳


 ラベンダーの入浴剤を湯船にダポン、と落とす。細かな泡が、ふくらはぎをくすぐるように撫で上げる。はああ。大きなため息が出た。ここ数日、ずっしりとした疲労が体内に横たわっていて動こうとしないのだ。はああ。今度は湯船へ顔を浸しながら、ため息をついてみる。ボコンボコンと大きな気泡が2つ、水面に弾けた。

 誰もが美津子の美貌を褒め称えた。黒木瞳に似ているともっぱらの評判だった。悪い気はしなかったが、目立つのは嫌いだった。この年になってもナンパは日常茶飯事だし、魚屋の主人は決まって貝類をおまけで握らせてくるし、果物屋の主人はむいたバナナを「美容にいいから」とその場で食べさせようとするし、犬の散歩をしていると白くて気味の悪い警官が遠くからじっとこちらを見ていたりする。こないだなんかは「おキレイな方のほうが、なにかと、ねえ?」よくわからない理由でPTA会長を押しつけられてしまった。それでも、マコトのため、愛する息子のためなのだと自分に言い聞かせ、引き受けることにした。

 入浴剤はコトコト音を立てながら膝の裏を撫で、脇の下を撫で、いつの間にか美津子の背後へと移動し、しばらくのあいだ背中を撫で続けた。しゃわわー。痩せ細った入浴剤が赤と青とに色素を分離させながら水面に浮上する。美津子はその毒々しい色彩を観察するために顔を近づけると、微細な泡沫に形を変えた香料が、鼻腔を強烈に刺激した。痛い。美津子は、ものすごく体に悪いものを吸い込んでしまった気がして、犬のように何度も鼻をフンッとやった。

 しゃわしゃわと最後の力を振り絞る入浴剤。自らの存在を消滅させるべく躍起になっているその姿は健気であり、いじらしくもあり、そして腹立たしくもあった。「しゃわしゃわしないで!」美津子は入浴剤をバシャンと水中へ押し込めた。

 静寂を取り戻した水面を眺めながら、はああ。3度目のため息をつく。そして、水面から顔を覗かせた膝頭を何気なく見つめていると、美津子は気づいてしまった。皮膚が、まったくと言っていいほど水を弾いていないことに。だらしなくへばりついたままの湯水。なによこれ。顔を背けるつもりで胸元に目を移したが、そこには、より面積の大きい不安材料が広がっているだけだった。

「オユハリヲ、カイシシマス」美津子は瞬時に操作パネルへと手を伸ばし、首から下が隠れるまで、いや、湯船から溢れ出してしまうまで、お湯を張り続けた。美津子は、ゆっくりと失われてゆくラベンダーのうす紫に気づくこともなく、上昇してゆく水位を、ただただ眺め続けていた。