とびだせ! 柔肌ポリス


「オユハリヲ、カイシシマス」曇りガラスの向こうから抑揚のない音声が聞こえる。全身を包むやわらかなお湯を想像すると、刺すような冷気が少し和いだ。柔肌ポリスは当直の夜になると、美津子さん宅を重点にパトロールを行った。入浴を終えるまで、不審者が近づかぬよう風呂場の外窓に立つ。それが彼流のやり方だった。

「今日はやけに長いな」柔肌ポリスは呟いた。風呂場でなにかあったのではないかと気が気ではなかったが、白く濁ったガラスの前では何ひとつ手がかりを得ることは出来なかった。「マジ、曇りガラスってすげえな」柔肌ポリスは、曇りガラスのプライバシー保護能力に大いに感服するのだった。

 いくら警察官とはいえ、風呂場の外窓に立てばたちまち不審者である。しかし彼は、特殊な能力でそれを回避した。日中に蓄えた光を夜間に発光する能力で、光る部位は顔面。リモコンのボタンや、蛍光灯のひもに利用されているものを想像していただきたい。ただひとつ違うのは、発光色が緑ではなく純白であること。おかげで、夜道に佇んでいても背の低い街灯としか認識されないため、怪しまれることは皆無であった。

 しかし20代前半のデリケートな時期は、この能力を疎ましく感じていた。ブレーカーが落ちるたびに起こされたり、耳かきのアシスト、夜間撮影の補助光などは日常茶飯事。キャンプの肝試し大会では先頭を歩かされ、ゴール地点にたどり着く頃には無数のクワガタや蛾が顔面に群がっていたり、テントで就寝していると「消せ」と言われ、発光をコントロール出来ない旨を告げるとあからさまな舌打ちを受けた。などというエピソードに関しては、枚挙にいとまがないのでこの辺にしておこう。

 だから、ディスコに行こうと誘われたとき、柔肌ポリスは困った。行きたいけど光っちゃう。散々思案した挙げ句、光を蓄積しないよう頭に毛布をかぶり、部屋の隅っこで日中を過ごした。そして作戦は成功した。光っていないのだ。意気揚々とアルコールを摂取し、ズンズンと響く重低音を腹部に感じつつ狂ったように踊った。しかしここでもまた、新たな能力を発揮することになる。

 顔面が、ブラックライトに反応していたのだ。暗闇のなか、ブラックライトの点滅に合わせ、彼の顔だけが真っ白に浮かんでは消えた。「バカ殿だ」「いや亡霊だ」「ちがう、バカ殿の生き霊だ」口々にささやき合う客たち。静まりかえるフロア。まさかそんな能力まで有していたとは。相当なショックを受けた。そして悲しかった。一刻も早く店を出たい。柔肌ポリスは脱兎のごとく駈け出した。しかしそのとき、ガタイのいい黒人が彼の肩を押さえ、親指を立ててウインクをしながら言った。「it’s cool!!!」

 「ウォー!!!」客たちの歓声によってフロアは異様な高揚感に包まれ、柔肌ポリスは一瞬にしてスターとなった。こういった空間では「目立つ」イコール「人気者」なのである。誰もが彼の周りで踊り、身をすり寄せ、飲みきれないほどのアルコールをごちそうになった。とても楽しかったし、気分が良かった。

 そして柔肌ポリスは、小柄で可愛らしい女の子といい感じになった。「ね、別のとこで飲まない?」思い切って言うと彼女は黙って頷いた。正直、柔肌ポリスは飲みに行くなんてどうでもよくて、とりあえず、彼女とキスがしたかった。それだけだった。店を出て外壁に手をつき、彼女の動きを封じると彼女は潤んだ瞳を静かに閉じた。「よし!」心でガッツポーズを決める。そして柔肌ポリスも目を閉じ、はち切れんばかりの鼓動と荒い鼻息を悟られないように顔を近づけたその刹那、彼女が叫んだ。

「やだ、まぶしい!」目を開けると彼女は、週刊誌に写真を撮られた芸能人みたいに手をかざしていた。そしてその光源は、他でもない柔肌ポリスの顔面であった。日中の対策は万全だったはずだし、ブラックライトは見当たらない。「ど、どうして!?」柔肌ポリスが呆然としている隙に、彼女はどこかへと消え去っていた。

 性的興奮による発光。
 その後しばらくしてから判明した新たな能力だった。「なぜこんなにも光る必要性がある?」悩んだ末に相談をしてみたが、優秀な溶接工である友人は「なんか、今の、名言っぽいね」としか言わなかった。柔肌ポリスは、なんだかこそばゆい気持ちになってその場では言葉を濁したものの、どう捉えてよいのか判断がつきかねたし、よくよく考えてみても全く意味が分からなかった。

 そんな昔話を思い起こしているうちに、風呂場の灯りは消えていた。「しまった! 美津子さんごめんなさい」柔肌ポリスは、パトロールを完全遂行出来なかったことに関して心から謝罪し、「明日こそは、明日こそはきちんとやりますから!」と夜空へ向けて意気込みを語った。

 そして柔肌ポリスは自転車にまたがってよろよろと走り出したが、ギッとブレーキを鳴らして急停車し、風呂場の窓を振り返って「ボクが、守りますから。ボクが、いつまでも、いつまでも照らし続けますから」と顔面を白く光らせながら小さな声で呟いた。

美津子37.5歳


 ラベンダーの入浴剤を湯船にダポン、と落とす。細かな泡が、ふくらはぎをくすぐるように撫で上げる。はああ。大きなため息が出た。ここ数日、ずっしりとした疲労が体内に横たわっていて動こうとしないのだ。はああ。今度は湯船へ顔を浸しながら、ため息をついてみる。ボコンボコンと大きな気泡が2つ、水面に弾けた。

 誰もが美津子の美貌を褒め称えた。黒木瞳に似ているともっぱらの評判だった。悪い気はしなかったが、目立つのは嫌いだった。この年になってもナンパは日常茶飯事だし、魚屋の主人は決まって貝類をおまけで握らせてくるし、果物屋の主人はむいたバナナを「美容にいいから」とその場で食べさせようとするし、犬の散歩をしていると白くて気味の悪い警官が遠くからじっとこちらを見ていたりする。こないだなんかは「おキレイな方のほうが、なにかと、ねえ?」よくわからない理由でPTA会長を押しつけられてしまった。それでも、マコトのため、愛する息子のためなのだと自分に言い聞かせ、引き受けることにした。

 入浴剤はコトコト音を立てながら膝の裏を撫で、脇の下を撫で、いつの間にか美津子の背後へと移動し、しばらくのあいだ背中を撫で続けた。しゃわわー。痩せ細った入浴剤が赤と青とに色素を分離させながら水面に浮上する。美津子はその毒々しい色彩を観察するために顔を近づけると、微細な泡沫に形を変えた香料が、鼻腔を強烈に刺激した。痛い。美津子は、ものすごく体に悪いものを吸い込んでしまった気がして、犬のように何度も鼻をフンッとやった。

 しゃわしゃわと最後の力を振り絞る入浴剤。自らの存在を消滅させるべく躍起になっているその姿は健気であり、いじらしくもあり、そして腹立たしくもあった。「しゃわしゃわしないで!」美津子は入浴剤をバシャンと水中へ押し込めた。

 静寂を取り戻した水面を眺めながら、はああ。3度目のため息をつく。そして、水面から顔を覗かせた膝頭を何気なく見つめていると、美津子は気づいてしまった。皮膚が、まったくと言っていいほど水を弾いていないことに。だらしなくへばりついたままの湯水。なによこれ。顔を背けるつもりで胸元に目を移したが、そこには、より面積の大きい不安材料が広がっているだけだった。

「オユハリヲ、カイシシマス」美津子は瞬時に操作パネルへと手を伸ばし、首から下が隠れるまで、いや、湯船から溢れ出してしまうまで、お湯を張り続けた。美津子は、ゆっくりと失われてゆくラベンダーのうす紫に気づくこともなく、上昇してゆく水位を、ただただ眺め続けていた。

マサグローさん


 マサグローさんが今日もまた、あなたの町を歩いています。
 ニコニコと股間をまさぐりながら。その行為に性的な意味があるのかないのか、単にそういう癖なのか、それは誰も知りません。白のポロシャツ、ベージュのチノパンとダンロップのスニーカーの隙間から白い靴下を覗かせ、誰かに危害を加えることもなく、ただただ、まさぐり歩いています。

「股ぐらまさぐるマサグロー」それは、「マ」のリフレインが小気味よい、素晴らしいフレーズでした。誰が言ったのかは不明ですが、それ以来、彼はマサグローさんと呼ばれるようになりました。かつてのマサグローさんは優秀な溶接工でした。けれど38歳のとき、なにか事件のようなものに巻き込まれ、すっかり記憶をなくしてしまったのです。

 砂浜で後頭部から血を流し倒れているのを発見されたのですが、事件の目撃者は一人も現われませんでした。ですから、なにがどうしてどうなったのか皆目見当がつかず迷宮入りとなりました。それから5年。マコトという中学生が立ち上がりました。同級生であるノリユキの特殊な能力を利用し、事件の全貌を明らかにしようというのです。

 マコトは、マサグローさんにただならぬ関心を抱いていました。どういうわけか他人とは思えなかったのです。「赤の他人」という言葉がありますが、赤は血液を連想させるのでむしろ「赤の身内」じゃないかと思いました。「赤の身内と緑の他人」そんな”即席めん”的なフレーズが思い浮かんだりもしました。

「マサグローさん、こっちこっち」事件現場の砂浜は徒歩で20分以上かかるので、なんとなく雰囲気の似ている近場の河原が選ばれました。「実際の現場のほうが正確に見えるんだけど」そんなノリユキのぼやきにマコトは、「そうそう、そうなんだよねぇー」とまるで自分のことのように苦い顔つきで言いました。

「さ、始めよう!」マコトの唐突な拍手に煽られたノリユキは、地面に正座するマサグローさんの鼻先に中指を立てました。それは、アメリカ映画で見たことのある悪意の仕草そのもので、マコトはたいそう肝をつぶしましたが、どうやらそれは、<見る>ために必要なモーションのようでした。そしてその中指を黙って見つめるマサグローさん。もし今この瞬間、マサグローさんが突如として記憶を取り戻したらどうなってしまうんだろう。そう考えて、マコトは少しワクワクしました。

「どう? なにか見える?」手こずっているのでしょうか、ノリユキは目をつむったまま低く唸っています。「ねえ、見えてるの? 見えてないの?」しかし、まったく反応がありません。マコトは無視されてかなりしょげかえってしまいました。もう家に帰りたい。そう思いながらも成り行きを見守っていると、ノリユキの指がわずかに下降、そして上昇しました。中指が、マサグローさんの右の鼻の穴に入ったのです。

「見えた!!!」マコトは仰天してビクっとなりました。「ほ、本当ですか!?」混乱して敬語を使うマコト。ノリユキの話を要約すると、つまり、こういうことでした。

「急に海が見たくなった」夜中に原付を飛ばしたマサグローさんは膝を抱え、湿った砂をパラパラしながら満月を眺めていました。そして、ふと立ち上がり、あてどなく砂浜を歩いていると何かが落ちているのが見えました。それはエッチな雑誌でした。瞬く間に砂浜を駆け、岩場の陰でパリパリとページをめくります。抑制できない神経の高ぶり。誰もいないのをいいことに下半身に刺激を与え始めるマサグローさん。満月の明りに照らされる女性の裸体、荒い息づかい、そして波の音。やがてボルテージは最高潮に達し、咆哮をあげんが如きのその刹那、マサグローさんは後頭部に強いダメージを受けました。下半身を露わにしたまま前のめりに倒れ込むマサグローさん。瞳からは、激痛の涙が溢れています。そんな姿を、満月は、いつまでもやさしく照らし続けるのでした。

「ウミガメっぽい」

 中指を震わせて笑いを堪えていたノリユキは、「もうダメだ!」と<見る>のを止めてしまいました。ひとしきりの悶絶が落着いてから、「で、結局、殴ったのは誰だったの?」とマコトが問うたもののノリユキは「背は高くて、髪は長かった、ようなシルエットだった、かなあ」と頼りない発言に終始し、肝心要を知ることが出来ませんでした。マコトはノリユキの隣へとへたり込むと、ため息をつきました。

「あ!」唐突に素っ頓狂な声をあげたノリユキの視線の先には、自転車にまたがり土手の上からこちらを見ている柔肌ポリスの姿がありました。「オレ、あいつのこと好きじゃない」マコトが憎々しげに言いました。「なんで?」「うちのチョコ、あいつにだけ吠えるんだ」ノリユキは驚きました。「え? あの大人しい犬が?」「うん。なんか変なのよ、ってママが言ってた」

「たしかに、背が高くて長髪なところが薄気味悪いよなあ」ノリユキがそう言うと二人は、はっと目を合わせて叫びました。「ああっ!!!」そして、改めて柔肌ポリスの姿を確認するとノリユキはこう言いました。「え? どういうこと?」「なにが?」「いまの」「いまのって?」「ああっ! て言ったじゃん」「いや、なんとなく、っていうかノリユキも言ったじゃん」「いやー、なんか雰囲気で」「そうなの?」「そう」「ていうかなんでこっち見てんだろ」「それよかさ、結局犯人は誰なわけ?」「分かんないよ」「分かんないじゃなくて、もいっかいちゃんと見てよ」「フォース使い切ったから今日はもう無理!」「えー」

 二人がふと振り返ると、いつの間にか立ち上がっていたマサグローさんが左手で股間をまさぐりながら、土手の上に向かってニコニコと大きく手を振っていました。しかし、それ気づいた柔肌ポリスは何も言わず走り去ってしまいました。それでもマサグローさんは、柔肌ポリスの姿が見えなくなるまで大きく手を振り続けるのでした。「うぇうらいろお、いであのうのう」珍しくマサグローさんが何か言ったのですが、意味が分からないので二人は無視をしました。

それゆけ! 柔肌ポリス


 柔肌ポリスが今日もまた、あなたの町をパトロールします。
 徒歩です。普段の柔肌ポリスは、自家用車、自転車のどちらかを使って移動するのでほとんど歩きません。お隣の永田さん宅へ回覧板を届けるのも自家用車に乗って、庭の洗濯物を取り込むのにも自転車を漕いで移動し、2階から1階へ降りるのも自転車を使って降りますが、さすがに1階から2階へは自転車を担いで歩くようです。

 巡査長に「ちょっとお前、それはどうなんだ?」と指摘され、試しに丸一日カウントしてみたらたったの12歩でした。「ほら、だからこーんなに細くなっちゃうんだよ」巡査長は、柔肌ポリスの太ももをさすりながら上目遣いで言いました。

 吹く風は冷たいけれど、青い空を見上げながらのパトロール。巡査長にもらった万歩計が腰のあたりで揺れています。向こうから、黒木瞳に似た奥さんがスピッツを抱きかかえてやって来ました。「こんにちは、いい天気のようですね!」柔肌ポリスが声を掛けるとキラキラの微笑みを返してきました。とてもいいにおいがします。話を長引かせるためにイヌを褒めちぎり「かっわいいですねぇ~」と手を伸ばすや否や「キャン!」と甲高く吠えつけられてしまいました。

 変な下心が読まれたのでしょうか? いいえ。たぶんそれもなくはないですが、おそらくは柔肌ポリスの、その肌の白さにビックリして吠えたのです。どれくらい白いのかと言えば、流行りの洗濯用洗剤で洗ったみたいに真っ白でした。長身で長髪であることから高見沢俊彦を彷彿とさせる白さで、かつ、柔軟剤を使ったかのような肌触りの肌でした。しかしながら若干、生乾きのような、ん? なんか今、いや、気のせいか。といった感じの、なんらかの拍子で鼻先に漂って来て、そして消えてゆくような、そんなにおいがしました。

 ぐぐう。柔肌ポリスはすぐにお腹が空きます。今日は歩きなのでなおさらです。定食屋のカウンターでスポニチを手に取り、いつものテーブルへと向かいながら「D煮定食!」と不機嫌そうに注文をしました。D煮とは、店の主人が『豚肉のコーラ煮』にインスパイヤされて作った『豚肉のリポビタンD煮』のことを指します。柔肌ポリスは、その、ケミカルな味付けの虜になっていましたが、店の主人に対してしぶしぶ仕方なくといった素振りを見せ、ゆっくりと平らげるのが常でした。

 定食屋の帰り道で、黒木瞳に似た奥さんとの再会を果たしました。なるたけ遠くから声を掛けたのは、スピッツを刺激しないためと、リポDの口臭による「いったいなんのためのスタミナ?」といった類のおかしな勘繰りをさせないためだったのですが、奥さんの腕から勢いよく飛び降りたスピッツは、柔肌ポリスの足元でキャンキャンと吠え続けました。

「ワシ、なんもしてへんやんけ」両手を挙げて立ちすくむ柔肌ポリス。エセ関西弁を責め立てるかのように吠えるスピッツ。耳がつんざけそうです。「ごめんごめん、あおもり、青森、出身は青森!」スピッツは、まるで噛みつかんばかりの勢いで吠え続けています。「アオ、青森、青森県は、む、むつ市の出身です!」

 きゅぅん。
 柔肌ポリスのカミングアウトを察知したスピッツは、大人しく奥さんの腕の中へと帰ってゆきました。柔肌ポリスの顔面は、息をぜいぜいさせて交番に辿り着いてもなお蒼白のままでしたが、幸いその変化を悟られることはありませんでした。しかし、本気で体調が悪いときにも同様だったので、いいのか悪いのか分からないと柔肌ポリスは思っていました。

「ねえねえ、何歩だった?」と巡査長がすり寄ってきたので万歩計を確認すると、液晶には何も表示されておらず、よく見てみたら電源がONになっていませんでした。しかし、太ももにほどよい疲れを感じていて、いつもより歩いているのは間違いないようです。「まあ、五十歩百歩といったところですかね」柔肌ポリスは、ウマイことを言ったようで言ってないことを言いました。

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