30歳を過ぎて転職したばかりの頃だった。
いい歳して金がない上に残業続きで自炊をする時間もない。夕食の選択肢は外食か弁当に絞られた。だけど外食は高い。そしてコンビニ弁当は味気ない。利用したのはスーパーの弁当。コンビニ弁当に比べ、若干の手作り感が味わえるのがその理由。それを一人ぼそぼそ食う。そんな毎日だった。
その日も、へろへろの体にくたくたのスーツで、シャケのり弁当500円ひとつを手に取る。おお!50円引きシールが。儲けた気分で左手に鞄、右手にシャケのり弁当を持ってレジへ直行する。レジの女の子(以下、レジ子)がバーコードを読み込ませながら言った。
『お箸お付けしますか?』
うーむ。家のを使うと洗うの面倒くさいよな。かといって割り箸もらえば環境破壊の原因になるなあ…。ガサツと偽善が頭の中で小競り合う。どうしたものか。財布の小銭入れから500円玉を取り出しながら答える。
『お願いします』
ガサツは強い。相当に強い。食い終わったら容器と共に袋に押し込んでポイだ。怠惰?堕落?不精者?素敵な言葉やん。なんて事を考えながら500円玉を受け皿に置き、財布をポケットにしまっているとレジ子が言う。やわらかな口調でありながら、それは耳を疑う鋭利な言葉だった。
『何膳お付けしますか?』
全身を走る衝撃。急激な気圧低下でも起きたかのように、血液が体中をさわわわわーと駆け巡る。暑いんだか寒いんだか区別がつかない。ただただ口調とは裏腹な言葉の意味を飲み込めずに狼狽する。それでも、それでも私は、狼狽を悟られないよう、出来うる限りの平静さを装って毅然と答えなければならなかった。
『一膳で』
事態を整理してみる。50円引きのシャケのり弁当450円。レジに持ち込んだのはそれだけだ。それ以外は一切持ち込んでいない。飲み物だって手にしてないし、買い物かごすら使ってないのだ。そんなの一膳に決まってるだろ。なんでだ?レジ子。なんでそんなこと聞くか。サービスのつもりならとんだ勘違いだ、レジ子。一杯のかけそばじゃあるまいし分け合って食うってのか?それとも腹を空かせた兄弟が待ってそうに見えるのか?空気を読め、レジ子。
恥ずかしさのあまり早足で出口へ向かう。開ききらない自動ドアで肩を打ちつつ外へ出ると、火照った顔面を木枯らしがぴゅうと叩き、やっとのことで冷静さを取り戻す。それと同時に、べらぼうに腹が立ってきた。べらぼうにだ。そもそもがだ、30過ぎの男が割引き弁当片手にレジに立つこと自体、負け戦なのだ。ひっかき傷だらけだ。傷口が沁みる。だからやさしくして欲しい。マキロン塗って欲しい。それをなんだレジ子のやろう、ウナコーワ塗るような真似しやがった。くそう、あいつ、おまえなんか、おまえなんか、おま、あれ?あいつ、田中康夫に似てなかったか?腹話術の人形みたいな顔しやがってこのやろう。
どうにも怒りが収まらなくて、よっぽど引き返して詰問しようと思ったが止めておいた。もうこれ以上傷付くのは嫌だから。それにしてもだ。それにしても一向に解せない。どうにも解せない。ああ、解せない。何故にあんなことを言う。くたびれた企業戦士に何故つらく当たる。教えてレジ子頼むから。真実が知りたいだけなんだ、ああレジ子。うう、レジ子。おお、レジ子。
何故だ、何故なんだ、レジ子。
※2006年、除夜のテキスト祭に参加した時のやつです。