カーラジオから、篠原ともえの「クルクルミラクル」が流れてきた。
当時、篠原ともえのことがウザくても、この曲を好きだったのは電気グルーヴの石野卓球がプロデュースしていたからだ。
運転中だから気にすることなどないと思いつつも、辺りをうかがいながら恐る恐る口ずさむ。
♪ミラクル クルクルクル イェーイ
私にとって石野卓球の歌モノは、DNAをくすぐるというか、琴線を刺激するメロディーで、自然とテンションがあがってしまう。気がつくと私は信号待ちで高らかに歌い上げていた。
♪むずがゆいコト言わないで もてなしますよ くつろいでね WOW!
目立ってなくちゃ つまらないよ 合い言葉は
ミラクル クルクルクルクルクルクルクル イェ~~イ!♪
「イェ~~イ!」で口を開けっぴろげの最中に、右折レーンの運転手と目が合ってしまった。脳みそにサロンパスをぺたりと貼ったようなヒヤリ感が、首筋と背筋を光の速度で駆け抜ける。
なんとも言いようのない表情をしていた。
同情、嫌悪、当惑が5:3:2で配合されたような、言葉ではうまく表現し得ない、かつて見たことのない込み入った表情。
だけど、車中で歌うなんてことは誰もがすることで、そんな視線に傷つけられる理由なんてない。・・・と思ってハッとする。もし、同じラジオ局にチューニングを合わせていたとしたら。同じ曲を聞いていたとしたら。それならば、すべてに合点がゆく。
「イェ~~イ!」じゃねえよ。
彼女は、そう思ったはずだ。
もし私が逆の立場だったとしたら間違いなくそう思う。
嗚呼、瞳のぱっちりとしたカワイコちゃんだったのに。
きっと彼女の中で私は、「クルクルの男」ということになっているだろう。そして彼女は友人や彼氏にこの出来事を話すだろう。その時には、「クル男」や「例のクルクルが」などとアレンジされて呼ばれるかもしれない。
皆さんに言われる前に先手を打って言ってしまうけど、「また会うことなんて絶対ないから」という言葉は慰めにもなんにもならない。だって、この世には「絶対」なんてないからだ。
例えば、ボンネットから煙を出してエンストしている車を見つけ、善意の気持ちで「お困りですかぁ~?」と声を掛けると、なんとあのカワイコちゃんで、向こうも向こうで「あー!」と指を差したきり腕を組んで黙りこくってしまって、私が修理をするあいだ鋭利な三白眼で睨みを利かせ、時折、急かすように、かかとでタイヤに蹴りを入れたりし、そして、直してもらって当然とでも言うように礼も言わず、あまつさえ、去り際に黒々とした排気ガスを浴びせられたりする可能性だって、ないとは言えない。
要するに、白昼堂々大人の男が車中で「クルクル!」云々と絶叫するということは、一度や二度のピンチを救ったところでチャラには出来ないような、双方にとって傷の深い行為なのだ。そして私は、現に、そいういう類のことをしでかしてしまったのだ。
懐かしさに、つい口ずさんでしまう気持ちは分かる。
でも、一旦、心のブレーキを踏み、冷静になって、歌唱の可否を判断する必要がある。軽はずみな歌唱によって損をするのは、あなた自身なのですから。