天然パーマの暴挙が抑えられなくなり、5ヶ月ぶりに髪を切った。
これまで幾度となく訴えている見解ではあるが、敢えて言わせていただきたい。美容室は敷居が高い。サロンと名乗る店舗はなおさらだ。白を基調としたオシャレな外観、オシャレな店員がオシャレな人の髪をオシャレにカットしている。そんな光景を電柱の陰から観察し、私は躊躇する。バリアフリー化された入口の、なだらかなスロープにさえ足がすくむのは、まばゆいオシャレにわななく私自身が築いた心のバリアに原因がある。私たちオシャレ見知りによる美容室難民の拡大を防ぐためにも、これからの美容室はメンタル面のバリアフリーにも目を向ける必要があるだろう。
オシャレを中和させるファクターの導入など、誰もが思いつくアイデアは手軽に実践可能であるが問題がないわけではない。例えば、バカ殿のポスターを店頭にディスプレイすることにより敷居が下がるかと言えば下がらない。そこには、「我々オシャレスタッフが、敢えてバカ殿を採用するなんて、とびきりオシャレでしょ?」といったスタンスが透けて見えてくるからだ。むしろ、敷居は高くなると言っていい。あらゆるものを取り込み敷居を上げてゆく美容室サイドの、いわゆるオシャレスパイラルに対し、私たちはあまりにも無力である。そう考えると、中和するためのファクターには、かなり思い切ったアイテムを用いる必要があるが、かといって店頭に馬糞をディスプレイ、となると論点にズレが生じてしまい、事態の収拾は困難を極める。よって、「適切な中和アイテムの選出」に関しては、多分にセンシティブさを孕む問題であることから、この場で早計な結論を出すことは避けたい。
擦り傷を負いつつ心のバリアを突破した私を阻むのは、美容師との会話である。以前、饒舌な店員によってよく分からない髪型にされて以来、彼らとはビジネスライクな距離感を保つように心がけている。たとえ会話をしたとしても、気の利いたことが言えず話がつまらないのではないかと気を揉んだり、興が乗ったとしてもプイとどこかへ去ってしまい話の腰が折れたりすると非常にやりきれない。また、「このあとどこか行かれるんですか?」の問いに、「いや、どこにも」と答える半笑いの自分を鏡の中に見つけてしまわないためにも、なるたけ会話はしたくない。
回避策としては、雑誌に逃げ込むのが妥当だろう。
大抵の場合、全く読みたいと思わない「CUT」をあてがわれる。美容室のデファクトスタンダードであるこの雑誌以外に選択肢を与えられていない私は、「カットされながらCUTを読む」というダジャレ行為の強要を甘受しながら渋々ページをめくることになる。そして、知らない外人のインタビューを読む。正確に言えば、用心深く読むフリをする。不用意に読み進めてしまえば、カット序盤にも関わらず残り2ページを熟読のフリでしのぐ必要性が生じてくる。
以前、カットの最中に突如としてサラミを賞味したくなったことがある。さほどサラミ好きではない私に、恋焦がれるほどのサラミ欲を発動させた要因は、虚ろな視線が捉えたCUT紙上の「サム・ライミ」というごく小さな文字列であった。このように、配分ミスはサブリミナルな欲望を引き起こすトリガーとなり、オシャレ空間でガチガチになった私たちをさらに混乱させる。
外傷を負って入店、雑誌のペース配分を計算し、ガチガチになり、そして不必要な混乱をくぐり抜け満身創痍となった私たちは、次のステージで、さらに神経をすり減らすことになる。
「首のほう苦しくないですか?」「はい」、「お湯の熱さは大丈夫ですか?」「はい」、「かゆいところはございませんか?」「はい」、「流し足りないところはございませんか?」「はい」。文字では伝えられないが、トーンや強さ、タイミングがすべて異なる「はい」なのである。勉強熱心な役者なのではない。「何回、はいって言わすのか」という苛立ちを隠蔽するためのオブラートのような気配りであり、不快感を表明することの許されない美容室においては欠かせないメソッドなのである。
「ヘッドアシスト」も上記メソッドの応用である。耳馴染みのない言葉かもしれないが、文字通り後頭部を洗い流す際の、頭部持ち上げ作業に対する補助行為である。大多数の方が、おや? と感じたことからも分かるとおり、多くの場合無意識下において行われているポピュラーなメソッドである。しかし、過剰なアシストは「頭の軽いバカな人間」といった誤解を招く恐れがあり、「タオルの向こうで店員同士がオレを蔑んで笑ってる」などといった、二次被害的な妄想によって自滅する恐れがあることから、推奨できないとする識者も多い。
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書けば書くほど読み手との温度差が開いてゆく事実を認識していない訳ではない。そもそもが論ずるに値しないテーマであることに加え、稚拙なレトリック、馬鹿げた妄想などに愛想を尽かし、お気に入りやRSSリーダーから次々と抹消されてゆく光景が脳裏をよぎるたび、キーを叩くペースは著しく乱れ、思考は保身へとなびいた。
現在の、光ファイバーを筆頭とする大容量高速回線は、動画やファイル交換ソフト等のトラフィックによりパンク寸前であるという。ごく僅かのデータ量とはいえ、蜘蛛の巣のごとく張り巡らされた貴重なインフラの帯域を占有し、0や1に変換された「馬糞」の文字列や馬鹿げた妄想を、縦横無尽に配信しなければならないほどの需要がいったいどこにあるのだろうか。
ない。
自信を持って言える。需要などない。だが、意味は、ある。いや、今は無意味でも、ディスプレイのバックライトで夜な夜な青白く照らされたその顔が、この記事によってほんの少しでもほころび、脳髄を揺らすことが出来たなら、その回数分だけ「無意味」が「意味」の・・・、あー、ちょっとすんません、タイムです、チンコかゆい、あーかゆい、かゆいから、掻くね。
えー、失礼致しました、もうかゆいところはございません。で、なんでしたっけ? そうそう、その回数分だけ「無意味」が「意味」のベクトルへ向けカウントアップされ、そして世界が、コンマ1ミリでもいい、私たち寄りに傾いてくれたら。そんな願いを込めて、この記事を公開しようと思う。私たちとて、いつまでも無力のままではいられないのだし。あーっと、ダメだ。やっぱしかゆい、チンコがかゆいです。かゆいから、掻くね。で、掻いた手で、また、書くね。役に立たないことを、書くね。