お茶目にまみれて


 みなさんは、最近の上戸彩の言動について何か言いたいことはないでしょうか?

 「つっぱりのこと分かってないっしょ?」
 と学ランとリーゼントで登場し力士にも着させた挙げ句、勝てますか?知らなーい。

 「入りんしゃい!」
 ゴルフのパットをうまく決めるためのアドバイスとして、片足を上げ両腕を突き出したコミカルなポーズで叫ぶ。

 「密着取材ですから!」
 そう宣言し、取材対象であるサッカー選手と自分とをベルトでくくり付けての強引な取材。

 オロナミンCのコマーシャルなのだが、どれも見る度にイラッとくる。宣言するが、私は決して上戸彩が嫌いではない。むしろ好きである。なのに、とめどなくこんこんと湧き出る苦い唾液のような苛立ち、急いでチャンネルを変えたくなるほどのスピード感を伴う嫌悪感は何だ。その正体は。一体何なのだ?

 お茶目。突っ張りとツッパリを掛けた学ラン姿、理解不能なコミカルなポーズ、密着取材での物理的な密着。全てに共通するお茶目という要素。これが苛立ちの元になっているのだと私は睨む。では、お茶目の何がいけないというのか。

 お茶目の重ね着。上戸彩本体がアヒル口というお茶目要素を孕んでいるにも関わらず、上記のようなお茶目コスチューム、ポーズ等を取ることにより発生するお茶目のミルフィーユ現象。食べろ食べろと執拗にお茶目大福ををぐいぐい口元に押しつけてきて、思わずその手を振り払うと悲しそうな顔をするばあちゃん。だけど、ぼく、もう食べれないよ、おなかがいっぱいなんだ、ごめんねばあちゃん。大福のたくさん詰まった口で必死に言い訳をするぼく。

 悲しきお茶目の過剰供給。
 ブラウン管から押し寄せるお茶目まみれの彼女に消化不良を起こし、私たちは癇癪を起こす。ああ、お茶目がまぶしい。

 金八先生の上戸彩が好きだった。性同一性障害の役ををローテンションで演じる彼女が。しかし、今の彼女のどこを切っても、顔を出すのはお茶目な断面のみ。フライトアテンダントを演じたドラマも、番組の宣伝を見ただけですでにお茶目で溢れていることが確認できたため、一度も見ていない。

 上戸彩はそろそろお茶目を脱いでもいいんじゃないのかと思った。

 参考資料
 以下のサイトで彼女のお茶目の一端を確認してみましょう。

 http://www.bb-navi.com/cm-douga/uetoaya.html

ライバルはガチャピン


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「必見! みんなの人気者・ガチャピンにインタビュー」
という見出しをYahoo!のトップページで見つけた。内容的には、ガチャピンのブログが本になったのだ、買ってね。という宣伝のためのインタビューで要するに茶番なのだが、そんな子供じみた揚げ足取りはせず、ガチャピンのことを着ぐるみではなく内臓のぎっしり詰まった一人前の有機生命体として捉えて読んでみることにする。

 ブログは夏休みの日記として始めたけど楽しいので続いている。パソコンはスタッフの人に教えてもらった。指が大きいから3つのキーを押しちゃう。ブログを更新するコツ。失敗してもあきらめない。いろんなことに挑戦したい。等々インタビューはそこそこに普通なものだったのだが、どうしても素直に読み飛ばせないくだりがあった。引用してみる。

――ガチャピンのブログを見て、ムックはどんな感想を言ってた?

「ほとんどは、“ほ~”“へ~”“ひぇ~” みたいなことしか言わないんだよね。でも、ムックのことを書いた日は、“ガチャピン、なんであんなこと書くんですかー!”とか “もっといいこと書いてくださいよ~”とかって言われるよ」

 出川哲朗が何かに対して懇願する姿をムックに重ねる。そして、感想には「ほ~」とか「ひぇ~」といった馬鹿のような発言しかしないことを知る。ムックはそんなにも“ろくでもない”キャラだったのか。もうひとつ引用してみよう。

――ムックもときどき書いているよね。ムックのブログはなぜないの?

「ムックはぼくが日記を書いているのを、たまにうらやましそうに見ていることがあるんだ。“ムックも書く?”って聞くと、いつも“いえいえ、毎日は書けませんから遠慮しておきます” って言うんだよね。毎日は書きたくないけど、ときどきは書きたいのかな? だって『ガチャピン日記』のふろく『ムック日記』を書いているときも、とても楽しそうだったしね」

 以前から思っていたのだがムックは不憫だ。ひとことで言えば扱いが雑。その切なさはコンビ芸人の売れてない方よりも深い。なんとかしてやって欲しい。頭にプロペラ付けてだらしなく口を開けた赤茶の毛むくじゃらをなんとかしてやって欲しい。なぜ日陰ばかりを歩かせる。いいのか?ムック。頑張れムック。立ち上がるんだムック。

 そうか、そうだったのか。いま気づいた。僕のムックに対する不憫という感情。それは無意識のうち彼を自分自身に重ね合わせていたからなのだ。ムックは僕だ。無口で不器用で出川。ガチャピンのように器用には生きられない。ムックは僕なのだ。

 ガチャピンへのコンプレックスと、ムックへのシンパシー。これは僕にとって大きな発見である。2007年、この現実を受け止めて僕は歩いてゆく。頭にプロペラを付けて、だらしなく口を開け、毛むくじゃらの姿で、日なたへ向かって僕は歩いてゆくのだ。

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ご挨拶


 昨年、年末ジャンボ宝くじを連番で10枚買いました。結果を照合してみたところ、3000円と300円がそれぞれ1枚ずつ当選していました。投資が3000円で利潤は300円。

 私はこめかみを押さえました。
 よっしゃ!と勝利のポーズを取るには利益額が低すぎるし、年末ジャンボを購入したほとんどの人が損失を被っていることを考えれば、落胆のポーズを取ることには躊躇を覚えます。しかも、換金という手間を考慮に入れると利益額はさらに減ることとなり、私は明確な損得のジャッジメントを下せずにいるのです。

 しかしながらこの微妙な損得勘定は、私が記事を書くにあたって心がけている、『役に立たないことしか書きたくない』というポリシーに通じるものがあります。何となく保存してある出どころ不明のネジのように、ただそこにあるだけでなんの利益ももたらさない記事。読んで何か得るものがあったのだろうか?むしろ、読んでいる時間だけ無駄を得たのではないか?読後にそんな疑問を抱かれる記事でありたい。と思いながらしたためているのです。

 支給額300円、時間の無駄288円、差し引き12円の記事。みなさんに1年間でどれほど貯蓄させることができるかは分かりません。更新頻度によるでしょうが、1ヶ月に5回更新するとしても720円ほどでしょうか。微々たるものです。しかし、そんな微々たるものでも年越しそば、もしくは正月の切り餅の足しにはなるでしょう。

 甲斐性無しなブログですが、本年度もひとつお付き合いのほどよろしくお願い致します。

君の鍵を探しにゆくから。


 「なんか喉、渇いたね」僕がそう言ってコンビニに車を止めた。

 風は冷たいけれど、雲ひとつない空からの意外なほどに強い日射しがぐんぐんと照らし、車内をたちまち心地よい日だまりへと変えた。縁側でくつろぐような気分で運転をしていた僕は、心地よすぎて横になりたい。運転しながら横になりたい。運転しながら横になって東スポ読みたい。という気持ちが抑えられなくなり、そうなるともう運転ではなく、寝運転もしくはカウチポテト運転ということになってしまい危険なので、睡魔を取り払うべくコンビニへ立ち寄ることにしたのだった。

 熱い缶コーヒーを両手でパスさせながら車内へ戻る。飲み口に触れるか触れないかの微妙な位置から、ズッとひと口すする。熱い。コーヒーの香りが脳をつんとつついて催眠術が解かれたように眠気が引き、視野が明るくなる。さっきよりも空が青く見えた。

 さあさドライブを続けよう。僕はポケットから鍵を取り出す。しかしそこに鍵はなく、古いレシートが乾いた音を立てるのみだった。そんな筈ないと、すべてのポケット、足元、座席、靴の中。あらゆる場所をくまなく探しても見当たらない。濡れた筆が首筋をすうっとなぞり、焦りと動揺が目の玉を内側から何ミリか押し出す。落ち着け、ほんの数分間のことだ。コーヒーをすする。深呼吸をして目を閉じ、コンビニに着いてからの行動をゆっくりと思い浮かべた。

***

 結論から言えば、車の鍵はコンビニのごみ箱から発見された。何のことか分からないだろう。一体どうしてそんなことが起こりうるのか。その種明かしはこんな具合だった。

 駐車場に車を止めた後、用心のため鍵を抜いて店内へ向かおうとしたら、車内に空き缶が2つ、レジ袋が1つあるのが視界に入った。そして右手に空き缶、左手にレジ袋を持ち、コンビニのごみ箱に投げ入れたのだが、実はこの時、左手に車の鍵が握られたままで、つまりレジ袋と一緒に鍵を捨てていたのだった。

 「あのー、ごみ箱に車の鍵捨てちゃたかもしれないので、探してもいいですか?」と店員に聞いた時の合点がいかない表情と言ったらなかった。当然の反応だ。ごみ箱を漁っていると、情けない思いが湧いてきた。それは漁る行為にではなく、こんな状況に追い込んだ自分自身の愚鈍さに対してだった。僕はどうしてこんな所で、ひとり負け相撲を取っているのか。こんな失敗、二度としたくない。

 「あ、ありましたー」店員に薄ら笑いを浮かべて挨拶をすると、一人のドライブを続行した。やり場のない怒りと情けなさと恥ずかしさが込み上げてきて、人気のない道を選んで強くアクセルを踏み、どこまでも走った。

 入会しました。
 http://www.shippai.org/shippai/html/

ホットコーヒーください


 早朝に酒屋の自動販売機で熱い缶コーヒーを買う。ゴキ、とやる気のない音を立ててぬるい缶コーヒーが落ちてきた。

 熱い缶コーヒーを放置すると、その温度が気温に近づいていく過程の中でコーヒーが最もまずくなる一点がある。今、私が手にしているものはその一点を完全に再現していた。ぬるさの絶対温度というものがあるとしたら間違いなくこの温度だろう。

 暖を取りつつ眠気を覚まそうと思っていただけに、私はとてもがっかりしたのだが、酒屋を起こして返品する行為とその労力の間に折り合いがつかないと判断し、仕方なくその缶コーヒーを飲んだ。一瞬にして身も心もぬるまった。思わず、うげぇという顔をしていたら犬が見ていた。あっち行け。