中学校の同窓会へ行ってきた。
案内の葉書が届いたのは2ヶ月前。返信先には当時の私が密かに好意を寄せていた女の子の名前が記されていた。その名はまゆみちゃん。
にわかにみぞおちの辺りから立ちのぼる中学時代の得も言われぬ空気感。決して新しくはない校舎の渡り廊下に牛乳のケースを抱えて立つ僕がいる。
何故そんな場面が浮かんだのかは分からないが、そこから手繰り寄せれば芋づる式にニキビ面の記憶がわんさと掘れる気がした。試しに軽く引いてみると、むせかえるほどの懐かしさがたちまち込み上げてきて鼻の奥をじんと刺激する。僕はなんだか思い出すのが怖くなって慌ててコーヒーを飲み懐かしさを流し込んでしまった。ぐびぐび。
改めて返信先の名前を眺める。彼女の苗字は昔と変わっていない。住所も卒業アルバムに載っているものと同じ。それは、つまり、そういうことである。途端に軽く締めつけられるような心地良い感覚が食道付近を襲い、同時に心臓の鼓動が速くなり顔が上気する。ときめいている僕がいた。びふナイトで皮脂を丸め込んだ夜に夢想したまゆみちゃんとのストーリー。それがいま現実のものとして、手を伸ばせば触れられる距離に存在している。
いやいやいやいやいや。
顔をぶんぶんと左右に振り、妄想もたいがいにしておけと自分を諫める。そんな色褪せたビックリマンシールみたいな淡い思いはティッシュに包んで鍵付きの引き出しにしまっておくのが無難なのだ。たったいま思いついた理論で、妄想を母体とするときめきをねじ伏せる。
期待すればするほど裏切られた時のダメージは大きい。
あの頃の僕が知らなかったことを今の僕は知っている。そのことを大人になったのだと言えば聞こえはいい。しかし実際にやっていることは、なにかへの期待という瑞々しく純粋なエネルギーを、ぴょんぴょんと飛び跳ねようとしているその熱量を、土鍋の蓋かなんかで強引にむぎゅうと押さえつけることなのだ。
――ね、それって楽しいことなの?
牛乳ケースを抱えた僕がこちらをじっと見てそう言っている。そんな目をするんじゃない。おまえにもこの気持ちが分かる日が来る。毅然とした表情を作ってあの頃の僕に僕は答える。しかしそれでもあの頃の僕はケースを抱え直しながら、いつまでそうしているつもりなのだろう、今の僕に意義を申し立てるかのようにずっと立ち続けていた。
……分かった分かった言いたいことは分かった。僕は彼の視線に耐えられなくなって言った。じゃあこうしよう、今回ちょっとだけ土鍋の蓋を捨ててみる。それでいいよな?
***
そして今、二つ斜め前の席に彼女がいる。薄いピンクのカーディガンを羽織った彼女はびっくりするほどキュートで可愛らしかった。潤いのある大きな瞳がきらきらと眩しい。それを見た期待という名の熱量はオレンジ色に光り、勢いよくバウンドし始める。待て待て待て待て。焦るんじゃない、焦るんじゃない、こらこらこらこら、ハウス!熱量、ハウス!!こら。
僕は待っていた。まゆみちゃんの会話に耳をそばだてながらアキラ達と下品な会話をし、話しかけるタイミングを待っていた。そして、「俺さあ、太股が好きなんだよねえ」。アキラがそう僕に切り出したときである。誰かがまゆみちゃんに質問をした。
「まゆみちゃんのダンナって、優しいよねえ」
反射的に振り返ると、まゆみちゃんと目が合う。ん?という顔をしている。うろたえた僕は知らないフリをしてアキラに視線を戻し言った。「俺はふくらはぎが好きだね」何を言ってるんだ俺は。そうじゃなくてそうじゃなくて、結婚してるじゃんまゆみちゃん。うっそー。わー、でも、あれ?住所が変わってないのはどうして?錯乱しながら疑問をぐるぐる頭の中で回していると、
「まゆみちゃん、婿様って大変なんでしょ?」
「えー、そんなことダンナに聞いてよ」
という会話が耳に飛び込んできた。
僕は全てを承知した。姓も住所も変わらないのは当然だ。まさかそういう手で来るとは手が込んでいる。思いもかけない展開に意気消沈しているとトオルが、「俺はねえ、くるぶしが好き。ね、いいよね?」と僕に同意を求めてきた。そんなこと知らんがな。僕はトイレに立った。あんなに光っていた熱量は今はもう灰色に姿を変え、いくら揺すっても反応を示さなかった。
僕は渡り廊下に立つあの頃の僕を捕まえ、青いジャージの肩口をわしっと掴んで言った。「な?な?な?な?な?結局はこうなるだろ?な?な?な?」あの頃の僕は牛乳ケースを抱えたまま俯いて黙っている。僕はジャージの肩口を掴んでいる。長い沈黙の中、不意に生暖かい風が二人を撫でるように吹いた。
あ、春だ。この匂いはきっとそうだ。風が春を蓄えて僕らの前にやってきたらしい。僕はその感覚を確かなものにしたくなって、目を閉じ大きく深呼吸をした。春は鼻腔を経由して肺の細胞に溶けていく。間違いなくこの瞬間に春が始まったことを知り、春の吐息をもらしながらそっと目を開けると、あの頃の僕もそれに気づいたのだろう、上目遣いで申し訳なさそうに笑った。