昼下がり、僕らのダンス


 
 いま、僕は、ベロを出しながら歩いている。
 正確に言えば、ベロを出しながら気をつけの姿勢を保ちつつ、爪先で前のめりにちょこちょこと歩いている。のどかな、平日の昼さがり。

 取り返しのつかないことがしたくなったのだ。
 ここは地元の複合型ショッピングセンター。知り合いに出くわす可能性は十分にある。その際、ベロ出し気をつけちょこちょこ歩きのことを、どんなふうに説明すればよいというのか。よしんば、知り合いに会わなかったとしても、主婦主催の井戸端会議で物議を醸すには、十二分の奇態であることは間違いない。変人のレッテルを貼られるのは目に見えている。そんなリスクとスリルとがチャンプルーして湧き上がった妙な高揚感が、僕のモチベーションを鼓舞してくれる。

 トイザらス前のベンチへ向かって、ちょこちょこと歩いてゆく。平日だけあって、人影はまばらだ。

 保育園の黄色い帽子を被った男の子が、ベンチに座って足をぶらぶらさせて、「なにしてんのー?」と声を掛けてきた。好奇心の眼差しがまとわりつく。僕は、答えの代わりにその場でちょこちょこ何度も往復してみせた。男の子は、僕の動きに触発されたらしく、見よう見まねでちょこちょこと、嬉しそうに行ったり来たりしている。

 男の子の傍らには、よちよち歩きの幼児が立っていて僕らの動きをじっと眺めている。弟だろうか。おむつで膨れ上がった尻をくっと落とし、土俵入りの力士みたいな格好で、不器用に手をぱちんとひとつ叩いて、「あはー!」と笑った。

 開けっぱなしの口からすうっと垂れたひどく透明な唾液が、午後の陽射しを乱反射させる。眩しい。

 すでに男の子は、ちょこちょこ歩きをやめ、独自路線を歩んでいた。無秩序な阿波踊りと呼びたいような、はちゃめちゃで出鱈目なダンスだった。「うひゃうひゃ」と奇声を発している。僕も負けずに激しくちょこちょこ歩いた。もちろん、ベロを出して気をつけの姿勢で。よちよち幼児も、小さな体と両手を上下させて、きゃっきゃきーきーとご機嫌な様子だ。

 もう、誰に出くわそうと構いやしない。勝手に井戸端会議で笑えばいい。僕はいま、底抜けに楽しいのだ。

 ちょこちょこ、うひゃうひゃ、きゃっきゃきーきー。
 ちょこちょこ、うひゃうひゃ、きゃっきゃきーきー。

 それはちょうど30回目のターンだった。向かい側の100円ショップから出てきた女性が僕たちを認めて一瞬、立ち止まった。と同時に、いくつもの買い物袋をわさわさと荒々しく揺らしながら猛スピードで走ってくるのが、視界の端に見えた。

 僕は向きを変え、裏口の駐車場へちょこちょこと走った。建物の陰から彼らを振り返ると、母親と手をつないで歩いている後姿が見えた。2人とも、興奮冷めやらぬといった感じで、せわしなく動きながら歩いている。しばらくすると、「ちゃんと歩きなさい!」とでも叱られたのか、黄色い帽子は今ではもう、その揺れを止めている。

 彼らは、家に着く頃には僕のことも、楽しく踊りあったことも、すっかり忘れてしまうのだろう。彼らの記憶に僕は残らない。忘れてしまうということは、きっと、取り返しがつかないことなのだ。

 

いいわけする魔女


 
ミスタードーナッツとパチンコ屋の間で魔女を見つけた
足首まである真っ黒なコートみたいなのを羽織ってて
そのうわっぱりの下は膝上のタイト・スカート
あたまには防空頭巾みたいなものが巻いてある
二十代かな? 石鹸の香りがひらひら寄ってくる

買ったばかりの文庫本をバサリと落としたら
ひょいと魔法で僕の手元に戻してくれたのが彼女
本が空中に浮いたので僕は驚いた のなんの

二コリと笑って「ありがとう」と彼女はのたまった
「どういたしまして」と僕もつられてのたまった
逆でしょ逆でしょ 逆だよね?
彼女は棒切れみたいな杖をひょいひょい振ってる
せっかちな指揮者みたいにちょこまか振ってる
ほっぺたが うすらピンクに染まってる ははあ照れかくし

何か こまって いることは なあい?
杖はひょいひょいから びゅんびゅんになっていた
あぶないあぶない あぶねえよ ってば
鼻先をかすめる危険な杖をよけながら 僕は答える
瞳孔を覗き込んで ゆっくりと僕は答える

きみの なまえを おしえてよ
彼女はうつむきながら小さく答える
それを 言ったら 怒られちゃうの
杖はびゅんびゅんから キーンになっていた
あちらこちらで犬が吠えだした
あちらこちらに魔女の超音波が届いたのだろう

 

あなたに感動あげません


 
 あーあーあー、休みなのに朝から部活なんてホントだるいよ。中学生はスポーツやってりゃいいんだ。ボール蹴ったり転がしたりさせとけば、よからぬ考えは起こさないだろう、チンコ立てんなピッチに立て。みたいなそんなね、考えるよ。よからぬことなんかすんごい考えるよ、それが生業だと言ってもいいよ僕ら14歳なんてのは。口を酸っぱくして言いたいよ。なーんて偉そうな口利いてるけど、うーん、先生たちは覚えてないのかなあ。自分が中学生ん時の煩悩をさあ。たんまり煩悩持ってたはずだよ。いくらスポーツさせたって無駄無駄。

 全然関係ないんだけどこないださ、バレー見てたの。女子バレー。選手の名前も知らないし、どこの国とやってたかも忘れたんだけど興奮したなあ。ラリーも得点も応酬しまくっててドキドキしながら見てたんだ。すごいすごいって。結局、負けちゃったのは残念だったけど。そしたらね、テレビで言ったの。スタジオで応援してた、若くてカッコいい芸能人が言ったの。「感動をありがとう」って言ったの。

 なんだかなあ。
 ずっーと前から微妙だと思ってたけどやっぱ変だよ、この言葉。なにが変なのかうまく言えないけど、なんていうか「感動」と「ありがとう」を無理矢理アロンアルファでくっつけたような感じがするんだよなあ。それとね、その台詞を言ってる芸能人の表情が、感動してるようには見えないの。能面かぶってるみたいなの。言いたいだけなのかな? 言わされてるってのもあるのかな。ね? ね? 感動したでしょ? っていう、テレビの押し付け演出なんだろうね。だから、その芸能人も本当は本当に感動してるのかもしれないけど。

 でもね、もし僕が感動してインタビューされたら「感動しました」とは言えるけど、「感動をありがとう」は言えないなー。言ったら顔真っ赤になるね。国語の朗読で「脳みそ」を「なやみそ」って読んじゃった時くらい真っ赤になるね。なんかさ、白々しいじゃん。嘘っぽいじゃん。あ、それじゃないかな、能面の理由って。無意識に違和感覚えてるんだって、絶対そうだよ。たぶんねえ、気持ちと言葉のテンションが違うんじゃないかなあ、その拒否反応で能面になるんだよ。

 小泉元首相が「感動した!」って言ってたけど、あれはアリだね。なんでかって言うと、うーん、あ、あれだ、感動ってのは「あげるもの」じゃないからだよ。そうでしょ?そうでしょ?そうでしょ? 例えばね、僕がサッカーの試合で物凄くがんばって、ボールに食らいついて、擦り傷だらけになって、足を痛めたりしながら試合に勝ったとする。で、ベンチに戻ったら、みんなわんわん泣いてんの。そこにクラスの女子が駆け寄ってきて、「感動をありがとう」って僕に言ったとするでしょ? 「ありがとう」って言われたらやっぱり、「どういたしまして」って言いたくなるけど、それってなーんか変じゃない?

 だってね、僕が頑張ったのはチームの為とか自分自身の為なんだよ、感動させようと思って頑張ったわけじゃないわけ。「カッコイイ!付き合ってください」って言われるんならまだしも、「感動をありがとう」って言われても僕、困っちゃうし、ちょとムカつくかも。その点、小泉元首相のは自己完結してていいよね。要するに、感動っていうのは、あげたりもらったりするものじゃなくて、自分自身の中から生まれるものなの。だから、真剣勝負の選手をね、自己陶酔の感動ワールドに巻き込んじゃあいけないと思うんだ。

 もし、「感動をありがとう」って言いたいなら、
 漫才を見て「笑いをありがとう」って言ってあげなよ。
 傍若無人な若者を見かけたら「怒りをありがとう」って声を掛けなよ。
 車に引かれそうになったら「恐怖をありがとう」って大声で叫びなよ。
 頭にネクタイ巻いてるオヤジがいたら「哀しみをありがとう」って呟きなよ。
 同期が出世するなら「劣等感をありがとう」って執拗にメールしなよ。
 恋人の浮気が発覚したなら「嫉妬をありがとう」って血文字で綴りなよ。
 宇宙人が地球を壊滅させるなら「絶望をありがとう」ってテレパシーしなよ。

 ここまで筋を通すなら、「感動をありがとう」って言ってもいいんじゃないかと思うんだ。美化したい感情だけに「ありがとう」ってつけるのはずるいよずるいよ。あ! ちょちょちょ、いまパンツ見えた!風がぴゅうって吹いて白いのがチラっと見えたよ。わーいわーいわーおわーお、興奮をありがとう! って、あ・・・。

 

七三日記(0430)


 
■運転中、狭い道で道を譲った時など、感謝の意として運転手同士が片手を挙げて挨拶することがある。その瞬間が好きだ。なんでか知らないが好きだ。猛スピードでかっ飛ばす車、無理な割り込み、執拗な煽り、狭い道での路上駐車など、路上は悪意に満ちあふれている。ストレスメーターはレッドゾーンを振り切って、キンコンキンコン警告音が鳴り響く。そんな路上において、運転手の良心を垣間見ることができる唯一の行為が、この挨拶なのだ。見つけたことはないけれど、劣悪な環境下で健気に咲くタンポポを見つけた時のような気分だ。そしてその気分は、自分以外の運転手はみんな卑劣で、悪代官ヅラで運転している。という、私の幻想をいくらか氷解させてくれる。

■だけど、手を挙げてくれない人もいる。余裕がないのかもしれないが挙げてほしい。挙げてくれたら嬉しいから、ただそれだけ。遠慮がちに挙げる人もいる。胸元で小さくパーを作っているのだ。いやいやいや。そんな皇室みたいな挨拶じゃなくって、「こん平でーす!!」くらい高々と元気よく挙げて欲しい。天井にぶつけて手首を捻挫したっていいじゃないですか。だいじょうぶだいじょうぶ。なんなら、正座して運転して欲しい。「アクセルもブレーキも踏めないじゃない」なんて正論の意見は粋じゃない。だいじょうぶ、だいじょうぶだいじょうぶ。単にその姿を見てみたいから、ただそれだけ。

■もひとつ、路上には死もあふれている。といっても人間ではなく、動物のことである。都会での運転経験がないので分からないが、田舎においては少なくとも週に一度は何らかの死骸に出くわす。圧倒的に犬や猫が多いが、見慣れない亡骸を見かける事もあり、聞けばタヌキやイタチだと言う。田舎ならではのバリエーションである。

■などと呑気に語っているけれど、実際に出くわすのはすごく苦手なのです。助手席ならば目をつむれば済むけど、運転手はそうはいかない。出来るだけそっぽを向いて視界に入らぬように視線を背けるものの、ハンドルを握ってアクセルを踏み、前に進んでいる都合上、完全に視界から外すことは難しく、「うひいぃあああ」と情けなく泣きながら通り過ぎることになる。ぐにゃりと横たわる姿が痛ましくて見てられないのだ。カラスがつついていたりもする。人間にしろ動物にしろ、魂の抜け落ちた肉塊を見るのは出来るだけ遠慮したい。したいが、しかしその一方で、どんな具合か気になる自分もいる。怖いもの見たさ、か。

■少し前に、沖縄料理の店で飲んだ。海ぶどうを食べた。沖縄料理の店に行った際には必ず注文するのだが、判で押したように毎回必ず品切れだった。で、今回初めて食べることが出来たのだが、うまい。酢醤油につけてもうまいが、ほどよい塩気があるのでそのまま食べてもうまい。味自体はそれほどないが、ぷちぷちした食感が癖になる。遅れて到着した友人に「うまいから食いなよ」と勧める。不審そうな表情をしつつ口に運んだが、「・・・まあまあ、かな」と反応はいまいちだった。しかし、その友人の記憶力もいまいちだった。「へえー、これが水ぶどうなんだ」って、「水じゃねえよ、海、海。そんな、水ぼうそうみたいな言い方やめてくれる?」

■言葉はもろい。食感の素晴らしい食べ物も、瞬時に湿疹レベルへと引きずり降ろされてしまう。オシャレなデザインで大人気の雑貨ブランド「フランフラン」だって、濁点を付せば「ブランブラン」で、タヌキの股間と同じ土俵に立たされてしまう。だたの小さな点々ではあるが、その爆発力たるや核兵器やケツバットと肩を並べる勢いである。言葉は、もろい。そして、その「もろさ」のパワーについて私たちはもっと知らなければならない。(神妙で固い感じの締めは、この記事のもろさを補強するベニヤ板みたいなものです)

 

新幹線は欲望を乗せて


 
 東京に向かう新幹線の車中、何かが臭う。座席を倒して寝ていると、時折つんつん鼻先を刺激してくるのだ。強烈に、という訳ではない。例えてみるならば、耳元でぷーんと蚊の声がするのでガバッと起きて電気を点けても蚊はいない。寝入りばなに再び蚊の声、飛び起きて電気を点ける。やっぱりどこにも蚊はいない。臭いの周期は、夏の夜に繰り返される不毛な寝起きに似ていた。

 ふと見ると、隣のサラリーマンが胡座をかいている。革靴から解き放たれ、露わになった黒いシースルー靴下の湿り気は、乾いた車内の空気にみるみる溶けて、私の鼻先にも届いたのだ。「我が家じゃないんだから」と、靴を脱ぐ行為に対して非難の横目をくれたが、よく見れば私もスニーカーを脱いでいた。……まさか。
 トイレに行って靴を脱ぎ、立ったままの姿勢で我が足を鼻先に寄せて検査する。バレリーナにでもなったみたいだった。大丈夫、臭ってない。発臭源はやっぱり奴だ。ついでに用を足してから席へ戻ると、サラリーマンは弁当をガツガツしていた。窓際にはペットボトルのお茶。スポニチを細くたたんで野球欄に食い入っている。彼の「我が家感覚」が、短時間で鋭く研ぎ澄まされていることに私は驚いた。
 私は、新幹線の中で弁当を食べるのが苦手だ。隣に知人がいるなら安心して食べられるが、一人では不安なのだ。混雑した新幹線の車内、ぐるりと席を見渡せば他人ばかり。つまりアウェイである。そんな中で弁当を食うのが、ひどく心細くてたまらないのだ。

 食欲、性欲、睡眠欲。
 本来、欲を満たしている状態というのは、とても無防備であり、恥じらいを覚えるものである。だから人間は、道端ではウンコもセックスもしないし、寝たりもしない。それが人間特有の美徳である「慎み」というものだ。と松尾スズキがエッセイで書いていたのを読んで大きく頷いた。アウェイの心細さに震えながら、弁当の匂いで近隣乗客の空腹に火をともさぬよう、隠れるように弁当をかき込み、口いっぱいに頬張っているときに通行人と目が合い、その恥ずかしさに目を伏せる私は、決して特別な存在ではなかったのだ。

 私は危惧している。
 先月、新幹線が全面禁煙化となった。非喫煙者にはあまり関係のない話。と思うのは間違いである。増大する喫煙者の不満をいかにして抑えるか、という問題が大きく立ちはだかっているのだ。つまり、禁煙化のトレードオフとして、吸えないイライラをなだめすかす為に、喫煙者の食欲を満足させなくてはならなくなった。え?それはJRが解決する問題であって、それこそ非喫煙者には関係のない話じゃないか。と思うかもしれないが、それも間違いである。 例えば、こんな具合に。

 新幹線に乗って寝ているあなたの鼻先に、香ばしい匂いが届いて目が覚める。見ると、左隣の客がぺヤングをすすっている。ぷいと鼻先を逃がせば、右隣の客は鍋焼きうどんをはふはふしている。前の席からジュワー!と聞こえ、背もたれの上から覗いてみれば、鉄板の上でステーキが肉汁をほとばしらせている。

 無法地帯である。
 食べ物の匂いと体臭がスクランブル交差し、臭いの無法地帯となる新幹線。メニューの幅を広げすぎてダメになった喫茶店のような、そんな車内で旅を満喫できるのだろうか。飲食車両を設けるべきではないのか? せめて火傷のリスクが高い鍋焼きうどんは撤廃できないか? などといった本末転倒な事態に陥ってしまうのではないかと、私は危惧しているのだ。

 食のサービス向上に伴う「我が家感覚」の拡大防止と、横行するグルメ番組で失われた、食欲に対する「慎み」をどうやって取り戻すかが、これからの新幹線車内を大きく左右すると言っても過言ではないのだ。

 いや、過言かもしれないのだ。