新幹線は欲望を乗せて


 
 東京に向かう新幹線の車中、何かが臭う。座席を倒して寝ていると、時折つんつん鼻先を刺激してくるのだ。強烈に、という訳ではない。例えてみるならば、耳元でぷーんと蚊の声がするのでガバッと起きて電気を点けても蚊はいない。寝入りばなに再び蚊の声、飛び起きて電気を点ける。やっぱりどこにも蚊はいない。臭いの周期は、夏の夜に繰り返される不毛な寝起きに似ていた。

 ふと見ると、隣のサラリーマンが胡座をかいている。革靴から解き放たれ、露わになった黒いシースルー靴下の湿り気は、乾いた車内の空気にみるみる溶けて、私の鼻先にも届いたのだ。「我が家じゃないんだから」と、靴を脱ぐ行為に対して非難の横目をくれたが、よく見れば私もスニーカーを脱いでいた。……まさか。
 トイレに行って靴を脱ぎ、立ったままの姿勢で我が足を鼻先に寄せて検査する。バレリーナにでもなったみたいだった。大丈夫、臭ってない。発臭源はやっぱり奴だ。ついでに用を足してから席へ戻ると、サラリーマンは弁当をガツガツしていた。窓際にはペットボトルのお茶。スポニチを細くたたんで野球欄に食い入っている。彼の「我が家感覚」が、短時間で鋭く研ぎ澄まされていることに私は驚いた。
 私は、新幹線の中で弁当を食べるのが苦手だ。隣に知人がいるなら安心して食べられるが、一人では不安なのだ。混雑した新幹線の車内、ぐるりと席を見渡せば他人ばかり。つまりアウェイである。そんな中で弁当を食うのが、ひどく心細くてたまらないのだ。

 食欲、性欲、睡眠欲。
 本来、欲を満たしている状態というのは、とても無防備であり、恥じらいを覚えるものである。だから人間は、道端ではウンコもセックスもしないし、寝たりもしない。それが人間特有の美徳である「慎み」というものだ。と松尾スズキがエッセイで書いていたのを読んで大きく頷いた。アウェイの心細さに震えながら、弁当の匂いで近隣乗客の空腹に火をともさぬよう、隠れるように弁当をかき込み、口いっぱいに頬張っているときに通行人と目が合い、その恥ずかしさに目を伏せる私は、決して特別な存在ではなかったのだ。

 私は危惧している。
 先月、新幹線が全面禁煙化となった。非喫煙者にはあまり関係のない話。と思うのは間違いである。増大する喫煙者の不満をいかにして抑えるか、という問題が大きく立ちはだかっているのだ。つまり、禁煙化のトレードオフとして、吸えないイライラをなだめすかす為に、喫煙者の食欲を満足させなくてはならなくなった。え?それはJRが解決する問題であって、それこそ非喫煙者には関係のない話じゃないか。と思うかもしれないが、それも間違いである。 例えば、こんな具合に。

 新幹線に乗って寝ているあなたの鼻先に、香ばしい匂いが届いて目が覚める。見ると、左隣の客がぺヤングをすすっている。ぷいと鼻先を逃がせば、右隣の客は鍋焼きうどんをはふはふしている。前の席からジュワー!と聞こえ、背もたれの上から覗いてみれば、鉄板の上でステーキが肉汁をほとばしらせている。

 無法地帯である。
 食べ物の匂いと体臭がスクランブル交差し、臭いの無法地帯となる新幹線。メニューの幅を広げすぎてダメになった喫茶店のような、そんな車内で旅を満喫できるのだろうか。飲食車両を設けるべきではないのか? せめて火傷のリスクが高い鍋焼きうどんは撤廃できないか? などといった本末転倒な事態に陥ってしまうのではないかと、私は危惧しているのだ。

 食のサービス向上に伴う「我が家感覚」の拡大防止と、横行するグルメ番組で失われた、食欲に対する「慎み」をどうやって取り戻すかが、これからの新幹線車内を大きく左右すると言っても過言ではないのだ。

 いや、過言かもしれないのだ。

 

孫よ


 
 僕は荷物の配達夫で、荷物を届けに来ただけだった。
 玄関のチャイムを押すと、庭の方から声が聞こえた。回ってみると縁側の奥の障子戸から、半分だけ顔を出しているおばあさんがいた。
「あの、これ、荷物です」
精密機器と書かれた荷物を渡し、受領印をお願いした。
「ハンコね、はいはいはい」
2~3分は待っただろうか。印鑑を取りに行ったはずのおばあさんの手には小さなお盆が携えられており、その上にはふたつの湯飲みが細かく震えながら立っていた。
「あの、すみません、印鑑をぉ」
そう言うとおばあさんは、
「あらやだ、恥ずかしいこと」
と、お盆を縁側に置き、恥ずかしげもなくケタケタ笑って、再び障子戸の奥にゆっくりと消えた。
 かすれた朱肉ではあったが、辛うじて印鑑を押してもらうことが出来た。通常ならば、お礼を言って立ち去るところである。しかしながら、「飲んで行きなさい飲んで行きなさい」と何度も勧められたため、一緒に縁側でお茶を飲むはめになった。スパっと断れないのはやはり欠点なのだろうか。
 湯気の立つ湯飲みから一口すすって驚いた。うまい。思わず聞いた。
「これ、なんてお茶ですか?」
「ほおじちゃっ」
おばあさんは何故か、力むようにして答えた。
 ほうじ茶なら飲んだことがある。しかし、こんなにも美味しいと感じた記憶はない。ひと息に飲むにはまだ熱かったが、冷まし息を強く吹かせながらぐっと飲む。心地良い喉ごしとともに、香ばしさが鼻を抜ける。
 はー。ふっと肩の力が抜けた。

 この仕事を始めてからは、食事を味わって食べたことがない。ほとんど噛まずに丸飲みだ。数少ない情報源であるスピリッツだってSAP!だって相当な斜め読みで、内容の理解度は甚だ怪しい。リポDだって、缶コーヒーだっていつも一気飲みだし、メールへの返信は10文字以内と決めている。
 すべては時間を作るためで、そうして出来上がった時間は、荷物を運ぶ為に余すところなく充てられている。この職業に就く人間はたいてい、知らず知らずのうちに自分の小さな時間たちを会社へ献上しているのだ。

 春で満たされた日だまりの縁側。
 ぽたぽた焼きのイラストみたいなおばあさんと並んでお茶をすするこの時間。なんて贅沢なのだろうと思う。このまま昼寝でもしたいほどに気持ちがよい。

「ウチの孫はねえ、800馬力なのよ」
おばあさんが唐突にそう言った。脳天にスイカが落ちてきた。ような気がした。ぽかぽかとした光のなかで恍惚としていた僕の脳天にだ。
「え? 何がですか?」
きっと僕が聞き間違えたんだろうと思ったのだ。よしんば、正しく聞きとっていたとしても聞き直したくなる発言だ。
「孫よ」
「お孫さんが、なにか?」
「3つなのよ」
「ええ、その3つのお孫さんが、なんか、バリキがどうのって……」
「800馬力なの」
「なるほど」
聞き間違いではなかった。しかし、聞き間違いでなかったが故に、僕は言葉に詰まってしまった。

 悪い癖なのだ。よく分からない事や、言葉がよく聞こえなかったときに、「なるほど」とか「へえー」とか「ふうーん」などといった安易な受け答えをしてしまい、話がずれていく。どうしてなのか、聞き返す事が恥ずかしくなってしまうのだ。でも、今回の場合はちょっと違う。どんなふうに聞いていいのか分からない。
「何がどうして馬力はどこから?」
どうしても禅問答みたいな質問しか浮かんでこない。

 すぐに思いついたのは、怪力の3歳児だった。おもちゃ売り場で駄々をこねれば梃子でも動かず売り場の床を破壊する、癇癪起こして電話帳を引き裂くし、スタックした車をロープと前歯で引き上げる、寝起きの不機嫌で投げたフォークが壁を突き刺して、デコピンで額の骨が陥没し、肩を揉ませれば肉離れ、「アンパーンチ!」で鼻の骨が折れる。
 無邪気さとは裏腹なバイオレンス孫。800馬力がどれほどのパワーを持つのか見当がつかないが、きっと肉離れや骨折では済まないだろう。上手い事を言うつもりはないが、そんな孫を相手にするのは、それこそ骨が折れるはずだ。

「じきに保育園から帰ってくるの」
「お孫さんがですか?」
「かわいいのよおおお」
そう言って相好を崩したおばあさんの湯飲みが、右手の中で砕け散った。
「ひっ」
「あらやだ恥ずかしい」
おばあさんが、雑巾を取りに障子の奥へ消えたのを見計らって、僕は逃げた。一言、お茶のお礼を。と薄く思ったが、その間に800馬力の孫が帰ってきて、「遊ぼうよ!」なんてことになったら、僕はどうなるか分からない。

 次の配達先へ向かう間、あのおばあさんは何馬力だったのか、気になって仕方がなかった。それだけは聞いておけばよかったなあ、と少し後悔した。

『半』のボーダーライン


 
 手際の悪い運転手だった。
 荷物を載せたいのだと伝え、トランク前で待っていたが一向に開かない。どうしたのだろうと運転手を見ると、慌ててボンネットを閉めている。新人のリストラ転職ドライバーなのだろう。丸く分厚いメガネを掛けたその男性は、オロナミンCの看板で微笑む大村崑によく似ていた。親近感を覚える顔ではあるが、あたふたと動きだけは忙しそうな仕事ぶりには閉口した。「頼むよ、崑ちゃん」という台詞が舌先で待機する。やっとのことで荷物を積み終えた。

 崑が車に乗り込み運転席のドアを閉める。バフンと音がした。
 崑は再びドアを開け、そして閉めた。バン!と鋭い音がする。
 半ドアだったのである。説明するまでもないが、閉まりきっていないドアのことだ。

 何気ない光景だが、これって実はすごい事なのではないか。ドアを閉めた際の音、もしくは力加減で、「半」であると判断したのである。車には、ルームランプを点灯させ、半ドアであることをアピールする機能があるが、崑はそれを使わずに半を悟ったのである。私は、崑に聞いてみた。

「今の半ドア、どうして分かったんですか?」
「どうして、って言われ……んー音ですかね」
「それじゃ、音で半が分かったんですね?」
「半? あ、ええ、まあそうですね」

「恵比寿までお願いします」
 車が走り出す。私は考えていた。動物は「半」を判断できるのだろうか。
例えば、通常より半分の量のエサを犬にあげたとする。犬はしっぽを振りながらエサをぺろりと平らげ、口の周りをぺろぺろ舐めながら「めちゃウマいやん、このエサ」などと考えるだろう。
 しかし気が付かないのだ。「半」であることになど、まるで気が付かないのだ。気付くのは夜中を迎えた頃で、それも、「なんや知らん、ぐうー、腹鳴っとんねん」などと、ぼんやり考えるだけだ。

 つまり、「半」を判断出来るのは、人間だけなのである。であるが、生まれつきその能力を備えている訳ではなく、経験を重ねることにより能力が身に付き、そして、重ねた経験に比例しその精度が増してゆく。

 しかしながら、世の中には様々な「半」が存在する。その全てに「半」のジャッジメントを下すことは可能なのだろうか、と考えてみる。半半半半半、半生(なま)。バックミラー越しに人生経験が長いであろう、崑に聞いてみる。

「半生はどこで分かりますか?」
「焼き具合、ですかね」
「具体的に言いますと?」
「噛み切ったレバーが、妙にジューシーだった時ですかね」

 なるほど。確かに、その断面を確認すると血がしたたっている事がある。半生は歯応えと肉汁で判断するのだそうだ。

「ステーキはミディアムレアが好きですけどね」
「へーそうですか」

 好みの焼き加減はいま関係ない。半半半半、半ズボン。崑に聞く。

「どうやって半ズボンを見分けますか?」
「膝より短いやつ、なのかなあ」
「なるほど、長さが半分になったズボンを言うんですね?」
「ええ、まあ、そうです」
「じゃあ、右が股下ゼロで、左が足首まであるのも半ズボンですか?」
「え、それは……」
「これも、長さで言えば半分ですよね」
「あ、ええと」

 この後、半ズボン、短パン、ホットパンツの違いを聞いてみたが、崑は泣きそうな顔で困り果てている。

「運転手さん、顔が半泣きですよ」
「こんなに半ズボンのことを考えたのは初めてです」

 顔つきが湿ってきたので、この質問は飛ばそう。半半半半、半殺し。聞く、

「どこまで痛めつけたら半殺しですか?」
「穏やかでない質問ですねえ」
「半殺しにしたことはありますか?」
「ないです、ないです」
「じゃあ分からないですよね」
「ええ。でも、半殺しにしたい奴はいますけど」
「じゃあ、その人をどこまで痛めつけたいですか?」
「裸にして、アロンアルファでコマネチのポーズに固定します」
「それは精神的な半殺しですね」

 理解不能だし、なんだか怖い。崑の深部を知るのが怖い。深追いせずに質問を変えた。半半半半半、半裸。ツ黴€

「どこからが半裸になりますか?」
「難しいですねえ」
「じゃあ、今から少しずつTシャツ脱ぎますから、半裸の時点でストップって言って下さい。行きますよ」
「え? あ、はい」
「どうですか?」
「まだの気がします」
「このへんですか?」
「そうですねえ、まだ……」
「そろそろかな?」
「ストップ!」

 乳首を越えたら半裸。なるほど分かりやすい。膝を打つジャッジメントである。崑の人生経験も伊達ではない。感心していると、崑が言った。

「お客さん、面白い方ですねえ。私も勉強になりました」
「じゃあ、メーター半額にして下さい」
「それは出来ません」
「そこをなんとか」
「半殺しにしますよ」
「コマネチ!」

 崑の脂ぎったメガネが、バックミラー越しに鈍くキラリと光った。ツ黴€

 

七三日記(0316)


 
■やたらとクシャミが出る。ついに花粉症デビューなのか。ここ数年、毎年思っていることだ。といっても、始終ハクシュンヘクションとやっているわけではない。なにが引き金なのかは不明だが、思い出したように始まると数回連続して出る。そんなパターン。デビュー前のレッスン中といったところだろうか。

■イチローが丸刈りにしたらしい。チームメイトが「ブラッド・ピットに似てる」と言ったとか言わないとか。正直、さっぱりしてていいんじゃない?程度の感想しかない。自分にとってはどうでもいいことだ。本当に問題なのは、以前の髪型が全くイメージ出来ないことだ。例えば、取り壊されて空き地になった場所に、どんな建物があったのか思い出せないことがある。あれー?なんだったけというような。そういう感じとはちょっと違う。

■飛行機の前輪が出ずに胴体着陸したらしい。車輪が出ないというトラブルはよく聞く気がする。なんなのだろうか。空を飛ぶのだから着陸は避けて通れない。翼と肩を並べるほど重要な部品である。だったら、しまわなくていいんじゃないの?と思う。車輪出しっぱなし。男らしくていいじゃないか。空気抵抗の問題とかあるのだろうが、不安要素を抱えて飛ぶよりずっといい。

■ではどういう感じかというと、出されたお題の絵を描くとき。例えばハットリくん描いて、と言われたときに筆が止まる感じに似ている。全体的なイメージはある。なんなら手裏剣も投げている。で、さあ描くぞ!と細部を追うが、ふわりと逃げていく。頭巾ってどんな形だったっけ?目はどうだっけ?こうして出来上がるのが、全く問題解決力のないハットリくん。絶対に手裏剣の投げ方なんか知らない。落とし穴に落ちたりする。

■新しいオロナミンCのCMが流れていた。営業マン役のフィギュアスケート高橋大輔に外回りを命じる上戸彩。「外回り、外回り」と呟きながら外出した高橋は、屋外のスケート場でくるくる回って帰ってくる。むかっ腹が立った。以前の記事には書かなかったが、実はこのシリーズの駄洒落センスがダメだ。受け止めることが出来ない。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いというが、駄洒落憎けりゃテレビまで憎くなる。手のひらからビームを出せる能力があるなら、間違いなく破壊しているところだ。

■絵を描く能力はダウンタウンの浜ちゃんほどひどくはないが、まずまずの「画伯力」を持っていると思う。特徴を捉えた似顔絵をみると、自分も上手く描きたいと思う。でもどうしてもダメだ。空間とか、図形の認識能力の問題なのだろう。高倉健が見栄晴になってしまう。なんとか訓練できないものか。

■クシャミが出て一番困るのは運転中だ。クシャミ中は、どうしても目が閉じてしまうし、ハンドルを持つ手も制御不可能になる。こないだも、ヘクション!とやった瞬間にあらぬ方向へハンドルを切ってしまった。交通量の少ない田舎道だったので対向車との接触はなくて済んだ。しかし、田舎道だったから良かったのだ。と言えないのは、道路の両脇を固める田んぼに頭からつんのめってしまう可能性があるからだ。むしろそっちのほうが怖い。

■オロナミンCのCMに一貫している要素は、スポーツ選手の爽やかさ、駄洒落、お茶目の3つである。駄洒落を、爽やかさとお茶目で丸め込もうとする魂胆がいやらしい。しかしなんと言っても、駄洒落とお茶目のコンビネーションがいけない。この事実を啓蒙するため、私はこれを駄茶目と呼ぶことにする。みなさんの力でこの問題を広めて欲しい、声に出して伝えてもいい。駄茶目。駄茶目。茹でたてが美味だ。ビールにもよく合う。

■七三日記。事実が七割、嘘三割。嘘七割、事実が三割。どっちが本当か分からないようなそんな日記です。

以前の記事
http://crash-log.cocolog-nifty.com/blog/2007/01/post_6095.html
オロナミンCのCM
http://www.otsuka.co.jp/cgi-bin/adv/index.cgi?ad=orc

 

白いアイテム


 
 湿布が年寄りにとって大きな存在であることを知ったのは、点滴を受けている時に聞こえてきた診察室の会話からでした。

 そのおばあさんは「胃痛・高血圧・目のかすみ」を事細かに訴え、医師もそれを丁寧に聞き、丁寧な相槌を打っていました。これはもう診察と言うよりもカウンセリングです。「じゃあ、お薬出しておきますからね」。医師がそう言うと、そのおばあさんは言いました。「湿布も貰いたいんだげど」。

 盛んに訴えていた症状とは無関係の要求に、「え?湿布?」と医師も1オクターブ高い声を出して問い返します。「いっつも貰ってっから」。当然のように答えるおばあさん。それに逆らうのは得策ではないと悟っているのか、「ああ、ほんと?はい出しときますね」とあっさりGOサインを出す医師。そして私はこの後、症状とは無関係に湿布を要求する会話に数件ほど遭遇しました。

 このことから透けて見える事実は、湿布は年寄りにとって相当な「マストアイテム」だということ。若者がipod無しの生活に耐えられないように、年寄りは湿布薬無しでは生きられない。その「肌身離さず」さ加減はipodの比ではないのです。

 それほど生活に密着しているのだから貼り方にも流行廃りがあるかもしれず、わざと斜めに貼った湿布を、腰履きの股引から覗かせるスタイルが「おしゃれ貼り」として蔓延した時期があったかもしれません。ホワイトバンドを模して手首に貼ってみたり、本家ipodのように操作部分を丸くくり抜いてみたり、国旗を模して頬に貼りサッカーを応援してみたり、おしゃれ貼りを起点としてさまざまな亜流が生まれたことも想像に難くはありません。

 さらにエスカレートして、「タヅさん、タヅさん、ちょっと見でよ」。そう言って露わになったイネさんの肩口に、見事な龍を形取った湿布が今にも動き出しそうに貼られていて、「あらー、最高にクールでないの!」。なんてことになっていたり、「目に入らぬかああ!」。そう啖呵を切ったテツさんの背中に舞う湿布の桜吹雪。「こりゃあ立派だわ」、「テツさんかっこいいー」なんて、寸劇が行われていたかもしれません。

 しかしブームには必ず終焉が訪れます。テツさんが肺炎で入院したのです。あの寸劇が原因でした。年寄りたちは誰とも言わず公民館に集合して話し合いました。そこで出した結論は、

「湿布は普通に貼る」

 年寄りたちはお茶を飲み飲みたくあんを囓って、生涯勉強やねえ。と、同じ轍を踏まぬよう今回の事件を笑うことで、そのことを確認しあったのでした。